《影を投げる》
魂は目に見えなくとも時により意識にとって、とてもありありとしたものとして感じられる。
それは既視感を伴う、記憶と呼ばれるデータを読み出すことが可能になっているからである。
読み出せはするが、ふわふわする感じも消えない魂のデータ。
曖昧さも残しつつ人によっては、時にハッとする程の実感を呼び起こすこともある。
そこに“魂が震える様に“グッと来たり”もする。
魂は記録媒体であると同時に、それをイメージ上で再生する映写機にもなる。
覚めぬままの人々は、欲しい場面を、求める雰囲気で、再生しようと試みる。
ピタッとハマれば、これぞこの世に生まれて来た理由と感じることもあるだろう。
それを求めて、魂に響くものを人は欲しがる。
そして魂に書き込まれたデータをすらすら読み出せると言われる人々が、重宝がられたりもする。
只、何処まで行ってもふわふわする感じは消えないので、読み出しを頼んだ人を信用出来るかどうかで揺れ動いたり、なるたけ腕利きの人を探そうとしたりと、切りがない。
切りがないし、これぞ生まれて来た理由とは、「これぞ・私が・生まれて来た理由」であり、大変に個人的なものである。
個人の思い入れやお気持ちの不満解消と別の不満発生の、片付けては散らかるループにはまるのも勿論自由。
只、それでは魂も意識も、本来の役割を果たす日は来ない。
心に刻む、と言う表現がある。
深く心に留めておき忘れない意味であり、肝に銘ずと言い換えることも出来る。
これの転用なのか「魂に刻む」とする言い方も、辞書の中には見かけないが、人々の間で使われたりしている。
心も、魂も、人の中で何らかの情報を刻んで記せるものとして、認識されている。
意識の「識」とは、目印を認識している様子を表わす文字だと言う。
言(言葉)+戠(戈の上につける目印)=識(認識している。理解する)
の構成で、字の意味は「識る」「物が解る能力」。
ご覧の通り、全くふわふわしていない。
現代では知るとほぼ同義となり、登場することの少ない言葉となっている識る。
「見分ける、知識を得る、認識する」の意味がある。
刻まれる対象ではなく、「刻んであるとされるものを・見る(観る)・意」が意識。
魂と意識には、書物と読み手の様な、明らかな違いがある。
無限なる影の虚空。
それを目に見える場として投影する物理次元。
影の投げる影、とは面白いことである。
裏の返す裏は、表となる。
弥栄の歓びで、
丸まま虚空の天意を、
愛として投影する時、
あらゆるものは本来の輝きを放つのだ。
真っ直ぐに投げよう。
(2022/6/27)