《山作りゲーム》
前回取り上げたニュース記事の中に、人を襲い射殺されたツキノワグマの方が恨んでいるかどうかについての記述は一切なかったと書いた。
既に書いた様に、人が計画して繁やそうとした結果、つがい候補に襲われ亡くなったホッキョクグマも居る。
そこでも、人間達からクマに詫びる言葉は特になかった。
どちらのクマも渦中の当事者なのに蚊帳の外、と言う不思議な状態になっている。
「だってそれは動物だから」
と言うのなら、そんな話の通じない相手に対して
「可愛がる」
とか
「大事に育てる」
とか、人の感覚でしようとするのも無理な話ではないだろうか。
人間は人間以外の存在との関係において、気が向いた時には都合よく心を通わせている風にしたがる一方で、都合が悪くなると蚊帳の外に置く。
悪いことだと責める気は全くない。
勿論良いことでもない。
只、そんな風に選り好み機能を使って都合よくピントをぼかした状態でモノコトを見ることが、変容の時代にはどんどん難しくなっている。
亡くなったクマが恨んでいるかどうかニュース記事に書いていないと気づいた時、そこから起きた理解はとても興味深いものだった。
人間と、人間以外なら、人間の方が少数派。ごく一部となる。
このごく一部が、その他大勢に向けて謎の主権を振るっている。
謎のと書いたのは、根拠なき主権だからである。
同じ様に、不覚社会の中で富と呼ばれるものの殆どをごく一部の人々が所有している。
このごく一部も、その他大勢に向けて謎の主権を振るっている。
そしてこれも又、根拠なき主権である。
構造は同じなのだ。
切れ目のない全体一つを、部分的にギュッと摘まんで引っ張り、高さを出してみた感じになっている。
動物を好んで育てる人々に動物への悪気はなく、只、いざとなれば全く以て対等ではないのと同じに、権力を振るう人々も振るう相手に対し悪気がある訳ではなく、只、いざとなれば全く以て対等ではない。
この山作りゲームで遊んで作ったものが、もう維持出来なくなってあちこちで崩れて来ている。
力を振るおうとする者がそれを向ける対象の自由意志を無視した時に、殊に大きな勢いで崩れる。
世の中で起きるそうした崩壊を見かけたら「あぁ、やっぱり自由意志は基本で要なのだな」と実感され、理解を深めて行かれること。
すると自然に、誰の自由意志も無視や軽視をすることがなくなる。
勿論ご自身の自由意志も同じ。
無理に押し通そうもしなくなるし、無理に押し込めることもなくなる。
権力者山や、万物の霊長山の見晴らしが良い場所に留まって、麓は雲の切れ間から都合よく眺める程度と言う状態を、エゴを残したままの意識達は望むだろう。
だが、全体一つの世界はエゴの都合に構って動いてはいない。
見たくないものは見ないと手で目を塞いでいたら知らぬ間に、高低差のない地続きの世界にしゃがみ込んでいたりもするだろう。
檻も柵もなしですぐ隣にクマが居たとしても、不思議はないのだ。
順調に崩壊中。
(2023/4/13)