《完了と更新》
この所、上から度々来ていた言葉「一日一生」を調べてみて、
「そうか、熟語じゃなかったわ」
と、頷いた。
内村鑑三や酒井雄哉、松原泰道等の言葉として知られ、
内村「一日は一生と同じくらい大切」
酒井「一日を一生のように生きよ。明日はまた新しい人生である」
松原「一日一日は全生涯と同じくらい大切」
と、多少の違いはあっても、集中してその日を全うすることを言っている。
一日を一生とするなら、一瞬も又、一生。
いのちの点滅としての「一生」であることに変わりはない。
「な~んとなく、今日も昨日の続き」
「な~んとなく、きっと明日も同じような一日」
こんな感じで意識がぼんやりしていたとしても、いのちの点滅は毎瞬行われている。
面白いことである。
一日、つまり明け暮れする24時間を一つの人生としてみる時、生きることに集中し易くなる。
端から端が見渡せないのでともすれば、ぼんやりとなってしまう日々が、分かり易いサイズになるからである。
活動的でせっかちと言うプログラムを持っている人は
「じゃあ、今日あれもこれもやってしまわなければ!」
と必要以上に焦るかも知れない。
目一杯やって数を多くすることが重要なのではなく、その日を生ききること、完了して満足することが必要。
そこに優劣はない。
合格発表が明日だろうが、決勝戦が明日だろうが、結婚式を明日に控えていようが。
どの日もかけがえのない一日であり、明くる日のオマケではない。
あの時こうすりゃ良かったと意識が思い返す、過去の或る日のオマケでもない。
完了すること、満足することには、まず本気であることが欠かせない。
何だってこんなことを書いたかと言えば、日々進化する存在として更新するには、その前の完了が必要だからである。
食事を楽しんで味わったらきれいさっぱり歯を磨く様に、その日の味わいを口に残さず意識を磨いてさっぱりと水に流す。
一日一生と言うくくりは、睡眠と言う表層意識が静かになる時間を挟むので、新たになる感覚が分かり易い。
人型生命体が生きることに集中するにあたり、適したサイズと言える。
松原泰道は著書の題名を『「一日一生」の生き方 ― 人はどう生き、どう死すべきか 』にしたりと、はっきり「べき」を出しているが、ちょっと匙加減が違う位で他の方々のお言葉にも、べき風味が加わっている。
これは良い悪いではなく、言いたい側と言われたい側が協力して、べきを含んだ教え導きを体験することも一旦は必要だったからだ。
べきが支える理想の実現と関係なく、自然な歓びのある生き方をするにあたり一日一生は役立つ。
一日一生は本来、べきとも良かれとも無関係なシンプルな事実。
幾人ものメッセンジャーを通して、この言葉が人々の前に現れたのも、全体一つの流れに沿う必然なのだ。
さっぱりと終えて、すっきりと始める。
(2023/2/13)