手》

 

「な~んだ、そうだったのか!」

 

と、敵味方の「敵」の方に関心湧き調べていて、この様に声が出る程面白い腑に落ち方をした。

 

敵の字について知る前に、適応や適当などに使う「適」を見ていた。

 

この字はモノコトが一筋にまとまった様子を表す「啇」に、行くとか進むことを意味する「辶」がセットになっている。

 

この組み合わせで「皇帝が思うままに行く様子」を表す形声文字になるのだと言う。

 

 

一筋にまとめる意味が、国を統一する姿に重なって皇帝となったのだろうか。

 

何にせよ、この字の成り立ちを踏まえて「敵」の字を見る時、「攵」の部分も辶の様に行動を意味することから、皇帝に行動を取らせる、つまり「皇帝と対等に渡り合う存在と言う意味になるのだそうだ。

 

そこには対等であることだけが表されている。

 

邪魔だとか憎い等悪い意味は別になかったのだ。

 

そうであるからこそこの世には、敵手」と言った表現も存在するのだと、そこまで腑に落として感心した

 

 

じゃあ何で世の多くの人は敵を邪魔にして、敵を憎むのだろうか。

 

敵を血祭りにあげることに興奮する人々、そうした興奮に陥る人々を下らないと馬鹿にする平和主義者の人々。

 

何処を向いても「敵」と言うものへの対等な見方感謝、敵が居たから体験出来たことへの感謝歓びは、あまり感じられない

 

学問やスポーツで戦い終わって握手を交わす、大会の現場に見ることが出来る程度である。

 

 

敵を嫌い、敵を憎むことで、得られるものって何だろうか。

 

敵対を蔑むことで、得られるものって何だろうか。

 

訳が分からないと首を捻っていた所に、啇には締まるの意味があり、まとまってあたる相手が敵と言う説もあるのを見つけた

 

引き締まるとか取り締まるとか、締まることでまとまって対応しなければならない相手が敵。

 

 

つまり味方を増やして、数で勝つ。

 

共通の敵を嫌ったり憎んだりすることで、味方同士の好感度信頼度の上昇が得られ、結果として勝利も得られる言う仕組みなら、これぞエゴのフル活用感心したくなる様な納得の流れ

 

そこには敵手に見る、対等な関係での一騎打ちのシンプルさはない。

 

権謀術数も駆使して望む結果を出そうとし、様々な思惑が入り乱れ見える所も見えぬ所も大乱闘となる。

 

 

このごちゃごちゃがやりたかったのだなぁと歴史を振り返って眺め拍手した。

 

先程出て来たもう一つの問い、敵対を蔑むことで得られるものは、「戦わずして勝っている風な気分になることではないだろうか。

 

敵対を選ばない。

 

これだけなら、別に蔑むことなしにでも出来るはず

 

敵対をダシにしてわざわざ蔑みたい時、そこには優越求める蔑む側の欲望がある。

 

その欲望の中には、やはり敵なるものへの嫌悪も混ざっている。

 

人類史に数多ある、と言う存在がなければ出来なかった体験をまとめて中立に祝う時。

 

個々が心に抱く蔑みや憎しみも、その中で泡の様に浮かぶちっちゃな彩りの一つであったと分かるのだ。

 

泡遊び終わる時代。

(2023/5/1)