《天意の生む愛》
梅と桜について、以前《春が生まれる》と言う記事にて、この様に書かせて頂いた。
“「梅」の字は木に毎と書くが、この毎には「子を沢山生む母」の意味がある。
古い字体では毋の部分は母と書かれていた。
そして桜の字で木の横に付くのは「首に玉飾りをした女」を意味する形。
無から万物を生む全母性が字の中に示された梅。
梅の後には、母が生んだ光の世界、その瞬間瞬間の繁栄を、玉の様に連ねて輝かせる姿が示された桜が咲く。
サクラサクを願って、梅のマークの神に願掛けとは、成る程な行事なのだ。
只、合格通知を貰うかどうかに関わらず、この世にあるヒト、モノ、空間、みんなが既に咲いている。
咲く、つまり幸く。
幸わうのが、世界本来の姿である。”
先日興味の湧いた、人間の持つ“花となりたい欲求”。
これは元からあった、物理次元に咲く歓びが変化して、周囲を背景と認識し自らをそこに咲かせてみたいとなったものだろう。
自他を分離したものとして捉え、更に自己都合を重視し優先していなければ抱けない欲求と言える。
こう書くと、それがまるで誤ったことであり悪いことであるかの様に捉える人も居る。
誤りでも悪いことでもない。
そして正しくも良くもない。
只、虚空のしてみたかったこと。
そして、やり終えたら新しいことがしたいのである。
咲き誇る、と言う表現がある。
これは多分、色鮮やかに活気ある様子で沢山咲いている花を見た人々が、
「何か誇らしげ!」
と感じてこさえた表現だろう。
全体一つの感覚が開き、溶けた状態で観察してみると、植物はどれも特に誇っていない。
薔薇や蘭、菊と言った人間の手が加わって様々な色や形に分かれた花達も、別に誇っていない。
育種家の、「どぉ~です!これ!」みたいな勢いを時に感じることはあっても、いのちそのものとしてはどれも素直に咲いているだけだ。
良い悪いではなく只、咲くと誇るはセットではないと言うこと。
見えざる芳香も合わせて、無限の虚空を表すのが梅。
空間に咲き広がり呼吸する様にパッと咲いてパッと散る桜は、虚空の生み成す物理次元とその毎瞬の点滅を示している。
観察者としての役割。生活者としての役割。
その両方を持つ人型生命体は、母であり子、子であり母。
梅であり、そして桜なのだ。
虚空の天意を示し伝えていても、物理次元の梅も勿論目に見ることの出来る愛としてそこに咲いている。
満開の花を前にして出て来た、梅でも桜でも愛には変わらぬとは、まさにであったと頷いた。
面白いことである。
有りて在る全て、元は天意によって生み成され、満ちている。
満ちているから、未知を行けるのだ。
そして道となる。
(2023/2/23)