《変わる潮目》
以前からそんな気配に気づいてはいたが、先日世間を騒がせた、
「過去の虐めや不謹慎が当人の告白や表現として記録に残っていたので、動かぬ証拠となり名誉ある立場を追われることになった件」
で、世の中の潮目がはっきりと変わったことを感じた。
何がどう変ったかと言えば、
悪意による攻撃
より
善意による攻撃
の方が力を持ち、主流になりつつあると言うこと。
悪意には、憎悪と呼ぶ程の激しいものだけでなく、悪ノリの様な「する側にとっては大したことない感じのもの」も含まれる。
世の中が正しい方に向かっている故の変化と言う訳ではなく、単なる潮目の変化、傾向の変化である。
何故なら善意による攻撃の中にも、大義名分を手に入れたことに紛れて出して来る残虐さが少なからず有るからだ。
このどさくさ紛れの残虐も、たっぷりとエゴを含んでいることは天にも地にも全く隠せていない。
地球環境や不覚社会の不安定さから、人心の不安も増し続けている。
潮目が変化した原因については、「神よ赦したまえ」的な願いを込めて一時的に品行方正を求めるノリになって来たと言う点もある。
そして悪ノリ虐め加害を支えていた「害されるとはそれだけ弱いと言うことだから、恥なのだ」と言う暗黙の了解が崩壊したこともある。
この「恥」と言うイメージが崩れて来たことは結構大きい。
恥の感覚があったことで、された側の沈黙が保たれる部分もあった訳で、ダムが決壊する様に噴出する恨みのエネルギーは、相当な勢いとなってこれからかつての加害側に向かうだろう。
不謹慎についても見つけ次第即断罪みたいな雰囲気で、発見者からの通報も増えている。
昨今の何でも記録する社会では、「あの時のあの一言」や「あの時のあの場面」は幾らでも取り出せる様になっている。
獲物を狙う正義のハンターが忙しく行き交う中で、旧式なノリで悪意による虐めや不謹慎を使って欲求を満たしていた人々は証拠隠滅を頑張ると同時に、口の利き方に気をつけて上手くやろうとする。
それでも何かしら出るのが、不覚である。
炎上でもいいから輝きたいと、注目に飢えて火種を作る人々も中には居るだろう。
そして、表面をぴっちり“善意ラップ”で覆った様な息苦しさを持つ世の中は、ふとした拍子に派手な悪意の暴発を招くだろう。
これについては、さかなクンが「人と同じく魚の世界にも起きるいじめ」を例にあげて、興味深いことを仰られている。
“メジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。
せまい水槽に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃し始めたのです。
けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。
さかなクンとメジナ。
すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。
助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。
いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。
広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。
同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。”
水槽は魚を憎んだり嫌ったりして出来たものではない。
その姿を近くで観察したいと言う興味や、同じ場所に居たいと言う希望により生まれたものである。
閉ざされた空間であれば汚れた水槽でも清潔な水槽でも、いじめは同じく起こるのだろう。
そうした動きが起こり得る舞台として有名である学校も、健全な青少年の育成と言う希望により生まれた密閉空間である。
会社組織も社会に貢献する、上昇拡大すると言う希望があり、密閉されている。
範囲が広すぎて気づき難いがコロナ禍と人が呼ぶ、行動が制限されがちな状態も同じく不覚社会を密閉する。
行動を制限して人々が守ろうとしているのは、明日への希望である。
希望は良いもんにも悪いもんにも定まらないが、今のもんじゃないことは確か。
必要なのは明日への希望ではなく、今この瞬間に発揮する天意からの愛だ。
不覚社会でも出所を求めたストレスを向ける的が定められるだろうなとは感じていたが、加害をした者であれば大手を振って鬱憤を晴らせる格好の相手と言えるだろう。
しかも正義を掲げて大勢で叩けば自分に関しての加害者感がなくなる、懐の痛まないオマケ付きである。
随分前、不覚時代には「被害より加害経歴の方が高くつくだろうな」と感じていた。
何でかと言えば、「新しくなることを世間の目が許さないから」である。
こうしたことについては以前も書いたが、被害と呼ばれる体験を経た者が「過去のことはもう気にしていません、今、全てが今なのです」みたいなことを言えば、世間でそれを止める者は別に居ないだろう。
「よくぞ仰いました、どうぞどうぞお通り下さい。そして今を生きて下さい」となって不思議ない。
だが、加害と呼ばれる体験を経た者が「過去のことはもう気にしていません、今、全てが今なのです」と言えば、待っている反応は「待て、ふざけるな!」ではないだろうか。
恥の感覚や無力感と一緒に「あの時されたこと」が、鎖で足に繋いだ重りの様になって被害者側の行動を縛って来た。
そこから潮目が変わり、今度は加害者側の足に繋いだ「あの時やったこと」の方が一気に重くなって来た。
そしてその「あの時」から抜けることを、加害者は世の中から許され難い。
どれだけ贖罪的なことをしても、許そうと言う人が増えても、「したこと自体は変わらない」と決まった体験や場面に世間や当人の意識が立ち戻れば、当たり前に新生は難しくなる。
中々、きついチャレンジである。
きつくても今を生きる意志があるなら、向き合う他ない。
それについては過日の騒ぎで不謹慎を謝罪した方が「当時の自ら」と「その後の自ら」の違いを行動含めて表明することで、身をもって道を示してくれている。
これまで、やった側は発言を控えて一時引きこもり、ほとぼりが冷めるのを待ちそそくさと戻って来ることが殆どだった。
逃げず行動で示すことは割とまだ珍しい例なので、加害経歴のある方はヒントに出来る。
賢さで売って来た人間が謝罪し、過去であっても己を愚かと言うのには、覚悟が要る。
罪に目を奪われていれば、許すことはあってもこの覚悟への拍手は中々されないだろうなと気づき、ニュースを観たその場で手を叩いた。
加害経歴のある者もきついが、被害経歴のある者も「さあ加害側にお返しだ」とか「待ってりゃもっと生き易くなるかも」と、意識の眠りを誘う色んな誘惑があったりして結局きつい。
どちらにもそれ程傾いていない、縛りを抜けやすい者から抜けて行き「どれも元はなかったでしょう?」と伝えて行くのが、歪みの昇華については最も平坦で広い道だ。
「そんなこと、被害はともかく加害や不謹慎の経歴が有る者の為になんぞ、してやるものか」
となるなら、潮目が多少変わるだけの荒波に留まることになる。
それも又、自由。
(2021/7/29)
7月のふろくはお休みし、8月に二つご用意します。