《四方八方?》
“よもの海 みなはらからと思う世に など波風のたちさわぐらん
(四方の海は みな同胞だと思っているのに なぜ余計な波が騒がしくなるのだろう)”
同胞とは同腹の、つまり母を同じくする子らのことであり、兄弟姉妹のことを指す。
それなら、波が立っても別に不思議はない気がする。
兄弟喧嘩って、珍しいものだろうか?
「何でモメちゃうの?」
の、ハテナは裏を返せば、人類皆兄弟だけでは限界があることを示している。
ついでに、平和を求める思いで成せることの限界も示している。
「四角い仁鶴がま~るくおさめまっせ」と言う時代もあったそうで、これはこれでありがとうだが、既に過ぎた。
四方が丸く収まるには見た目四角い人の力を借りるのではなく各々、天と地に通じる中立な意識によって世界を全方位開くことが求められる。
そして、同胞と言うお子様枠を抜けて「母であり子、子であり母であった」感覚記憶を復活させることが必要になっている。
新世界はまだ起きたくないよと言う人々を待って殻に籠ったりしておらず、とっくのとうに開かれている。
世界を「それがそれである」と腑に落とした時、その当人にとって開かれると言うのが実際である。
とっくからあるものを、目隠しして「見えないよ~」と藻掻いている不覚社会の人々。
新しい世界を「あったら素敵なお伽話」扱いして、好きに描いたイメージを意識に広げて、思い出した時にパラパラめくるだけなら当たり前に、気休めのままとなる。
先日、《生きとし生ける》と言う記事の中で、
“ひょんなことを切っ掛けに先日から、あらゆるものに神を観る八百万の世界観と、共通性を感じるもう一つの世界観を重ねてみている。”
と書いた。
ところがその後、更にもう一つの世界観が同乗して来た。
八百万の世界観が、離れた二つの世界観の間を取り持ったようである。
宮司を名乗る“これ”の普段している凡記事やその他の調査入力を「車の運転」とすると、ドライブ中にいきなり連れ立って乗り込んで来て、更に追加メンバーまで呼び込んで来た。
後部座席で待ち合わせすんなと振り返ったら、まぁワイワイ賑やかにやっている。
八百万を間に置いた二つの世界観は、この細長い列島の北端と南端にそれぞれ保存されて来たものである。
共通する点もあり、同時に「まるで一つのものを割って二つに分けた様に」、真逆の点もある。
敗北を嫌い、それを避ける為に指南を請うと言う発想は、人類の中に長らく根づいている。
だがこの二つの世界観が保存される土地に暮らす人々は、不覚社会的にどちらも「勝ち組」扱いをされていない。
南なら勝ちって訳でもないのだ。
勝っているとして扱うものに「中央」をつけて重視し、反対に「末端」を軽視するプログラムも人類にはお馴染みなので、そっちを採用しているのかも知れない。
「色々発見あって面白いけどさ、何でこのタイミング?」
と、こっちの用事などお構いなしの乗客達に尋ねながら、その時まで意識を向けようとしていたナビの示す先を眺めてハッとした。
ダーツで当たって貢献することを「了解した」と、調査に乗り出していたその地域には、“天下分け目の”合戦があったとされる、東軍と西軍による勝負の場所がある。
「東西南北か~。こりゃハードな、そんでもって愉快な旅になりそうだ」
と、頷いた。
四方のどれも欠けることなく力を尽くす探求と言う旅は、惜しみなく引き受ける意味がある。
重ねて申し上げるが、天地に通じる中立な意識なしに四方を八方に広げた所で、やがては八方塞がりとなる。
グッドセンスな皆様におかれましては、まず意識を天地に通じること。
それに加えて気が向かれたら、自身がこれまで親しみを持ったり好んだりして肩入れしていた方角の「対極」を観察してみられることをお勧めする。
そこには分割意識が置き去りにしたままの、宝が眠っているからである。
よもの海、いずれにも深さあり。
平らのみでは、知れぬものなり。
(2022/5/30)
5月のふろく《東西南北観察メモ》
意識の中にある「東」「西」「南」「北」それぞれのイメージを書き出してみるメモをこしらえました。
四方の海で「東」「西」「南」「北」に浮かぶ四つの扇に、浮かんだことを自由にお書き下さい。
書き終えてそれらを中立に観察し、意識にとって最も遠く感じられる方角をお選び下さい。
選び出した方角に向けて、天意からの愛を放つことを、何か一つ実行します。
その内容と、実行後に変化を感じられた時はそれも併せて、船と鳥居の間の白いフワフワ内にお書きになり、観察のまとめとなさって下さい。