《嘆くなら》
『ぐりとぐら』についての読み解きは、その前に来ていたテーマに重なる部分があり、前後の流れが集まって理解を加速して行く運びは見事なものだった。
先に来ていたテーマとは、慈悲と慈愛である。
彼らの世界からは、幾度も書いた通り慈愛を感じる。
だが、慈悲は一度も感じなかった。
『ぐりとぐら』から不覚者のイメージする“慈悲”が特に感じられなかった理由は、あの世界には「かわいそう」と言うものの見方がないからだろう。
真の慈悲については、《不覚は青春》と言う記事で触れたことがあり、こんな風に書いている。
“至福は変わらず常にある。全存在への愛おしさも勿論のこと。
それと同時に、本当に胸の痛みとともに、悲しみとしか呼べない感覚がそこにある。
それには人間感情の悲しみとは違い、被害者意識が全くない。
自らには何の影響もない事を知っている。困る事も一つもない。
ただ、全体の目覚めがせき止められて、もう本当は必要のない同じ動きをぐるぐるとしている事を観ての悲しみがあった。切なさやもどかしさだけでなく、深い慈愛の感覚を伴った悲しみである。
悟った感溢れる人工的な至福表現が慈悲と呼ばれて来た気がするが、本当の慈悲はこの慈愛を伴った悲しみの方だ。”
真の慈悲には被害者意識がないことは勿論、「何かを嘆く」気持ちも全くない。
不覚のまま、悟った感溢れる人工的な至福表現で慈悲深さを出そうとする人々が居る。
一方、慈悲深さを自他に求める中で、「嘆く」と言うアピール方法を選ぶ人々も居る。
前者は微笑式、後者は血涙式の慈悲スタイルで、それぞれ自己表現をする。
どちらも自己表現による自己実現を求めているが、血涙式の方がより過激となる。
かわいそうな○○を顧みない世の中
かわいそうな○○を踏みにじる人達
かわいそうな○○が報われない運命
気になったものを○○に入れて、嘆くという方法でそれらの苦を楽に変えないものを責めているからである。
人間はその人ごとに「責める」方法を様々に持っている。
拳でポカリと打つのが得意な人も居れば、ハァーーーーーーと良く響く溜息を使うのが得意な人も居る。
嘆かわしい事態を並べ数えて、天に訴える風にするのが得意な人も居る。
深い慈愛を伴った悲しみである真の慈悲は、何も嘆かないし、誰も責めない。
愛は何も嘆かないし、誰も責めないからである。
慈悲で起きるのは、胸の痛みも受け入れ味わいながら、「自らの出来ることを最大限行う力」に変えることだけである。
慈しみと嘆きは両立しない。
言葉の存在するしないで見れば、慈悲はあっても慈嘆はないことからも、それは明らかではないだろうか。
嘆きを使って何かを責める人々は意識的に
「よーしジャンジャン嘆いて、無慈悲な奴らをキリキリ責め立てるぞ!」
とやっている訳ではない。
嘆き責めの起こる背景には、様々な事情があるのだ。
次週、それについて書かせて頂くことにする。
嘆くなら、慈も愛も遠し。
(2022/2/24)