《嘆きと煮詰まり》
嘆き責めについて申し上げるのは、今回まで。
既に二つの事情をご紹介した。
どちらの事情もそこから細分化したものが絡み合って、より複雑になっている。
そこに、本日お知らせする
事情その3・不覚そのものが煮詰まって来ている
が、更に粘度を増す力を加えている。
現物の借財であれば、借りていない所から取り立ての叱責があれば言われた方も文句を返せそうだ。
だが、良心の呵責を求めると言った糾弾は、責める方は放ち放題、責められる方は放たれ放題となる。
責められる方の状態としては、歯を食い縛ってじっと我慢している場合も、鼻ほじりながら知らん振りな場合も、目もくれずに黙殺な場合もあり、実に様々。
いずれの場合も放たれ放題に変わりはないので、止めも止められもしない嘆き責めはミサイルの様に乱射され、エネルギーは空費され、不覚の煮詰まりに力を加えることになる。
煮詰まって水分を失い、その渇きによって嘆きの欲求が増し、嘆くことで更に煮詰まる。
嘆きで放つ「渇いてるぅ~!」は、言った通りにその場を乾かす。
「渇いてるってことは?!察して潤わして!」と言う要求は通らない。
そうした物理次元での不覚プログラムサポートはとっくに期間を終了しているからである。
煮詰まりは昇華とは異なる。
煮詰めに煮詰めて、水分を飛ばし尽くして出来上がるのは、『不覚時代』と題のついた壁画である。
嘆きで責めるプログラムも壁画の一画に、その形のまま収まって固まる。
ついでにそのプログラムを作動させ続けた人々も一緒に固まる。
そして新たな動きをしなくなる。
これは嘆き責めに限らず、不覚あるあるな動きは皆同じとなる。
不覚の人がイメージする“慈悲深い仏心”であるとか、立派なイメージでそれなりにファンがついてそうな動きも、
「綺麗だから新時代にも取っておこうよ」
とか
「見どころがあるから予選突破でまだ残る」
とかには、特にならない。
変容の時代では、
「善でも悪でも傾きには変わりなく、あらゆる不覚の現れはその奇妙な傾きを何者でもない虚空がやってみたかっただけなのだ」
と言うことを、当たり前に腑に落とした状態が基本となる。
嘆くことは、良くも悪くもない。
責めることも、良くも悪くもない。
こうあるべきだと思うことも、良くも悪くもない。
やりたければ、やるのも自由である。
だが、それらに集中力体力気力と言ったエネルギーと時間をかけても、全体一つの感覚に意識が帰還することはない。
今この瞬間の力を、どう向けてどう注ぐのか。
そこを決めるのはそれぞれの自由意志であり、他の何も誰もお膳立てしようがないのである。
意志と実行なしに、本道は開けぬ。
(2022/3/10)