《台代不能》
以前に書かせて頂いた《動と激》と言う記事の中で、
“不覚にあると、重要なことを「ちょっと似た別のもの」で置き換えて済ますことが良くある。
例えば「愛」を「発情」で置き換えたり、「幸福」を「興奮」で置き換えたりする。”
と、書いたことがあったが、そう言えば天の意と書く方の「あい」も、人は別のものに置き換える。
天意→聖
そしてこうも置き換える。
聖→善
これは社会にかなり根深く浸透している不覚の偏りである。
どうしても天意を「あい」と読むのが嫌だと言うプログラムが入っている方が、眉間に皴を寄せながら「てんい…がですね」と天意の話をしているのを聞きながらふと気がつく、と言う体験をしたことがある。
何かを嫌だと感じる時、その嫌は何故発生するのか又どう言う嫌なのか、観察をせずに意識の嫌コレクションとして所蔵したままだと、当たり前にずっと残る。
そしてその人が「天の意」は天のものであり、人知を超えた聖なるもので、清らかで正しくそして善である、そうでなければならないとしていることにも気づいた。
「きよらか」には、聖らかという字の当て方もある。
音読みではどちらもセイやショウ、そこに同じ音のある正も足せば
清・聖・正
この三つに善コーティングをして清・聖・正に仕立てたものは、善を好む人々が意識内ユートピアを構築する際の材料になっている。
それらを全て「生」と言うセイ・ショウに繋げて、善を好み生を願う人達は生き抜こう、生き残ろうとする。
一旦悪にブレても善となる為に必要だから学びとして起こるのだ、だから不運の連続と言う人生の悪路にも耐えよう、そうすれば善なる世界に生きる道は開けるはずだと。
勿論そんなことは起きない。
何故なら自然ではないし第一、当事者である善ファン達も実際はそれを望んでいない。
それが叶ったら、もう悪を糾弾出来ない。
慰めや励ましの場面で強い感情反応を期待出来ない。
義憤に駆られて行動し、賞賛されることも出来ない。
悪の無慈悲に怒り、熱い涙を絞ってその快感を楽しむことも出来ない。
その他あれやこれや、つまり色んな不覚イベントがいっぺんにおジャンになるからだ。
善と悪がお互いを潰し合わない様に維持することが定められている“台本”があり、それに従って人類は上手に加減をして善悪を堪能して来た。
このシナリオでは大体の人が自分側を「善」だと見なしていて、「俺って悪い奴だぜ」と承知の上でその役を務める人材は中々貴重。
見なすだけで善悪どちらでも好きな側に立てると言うのは、何ともお手軽な設定で曖昧かつ恣意的と言える。
人がそれぞれに持っている、色が違ったり変わったりする善悪フィルターを取れば、そこに残るのは単なる“色んな都合”なのだ。
「もう善悪に拘らなくなりました」と言う人が居ても、話を聞いてみると「許せない!」とすぐ熱くなるちっちゃめの善から、悪も広い心で許してあげられる大きめの善に移動しただけ、と言うことがある。
それもやはり、都合の域を出ない。
変容の時代となり、ご都合台本による段取りがどんどん機能しなくなっている2021。
普通のことに、普通に気がつく、そんな機会が訪れている。
それは、
天意も愛も、聖も清も正も、そして生も、善悪と関係がない
と言うこと。
善い子を好み、あるいは悪い子にも目を瞑れる善い親である自分を好み、それを愛と呼んで子育て役をする人は居るが、
善でなければ愛さない者は、真の親と言えるだろうか?
善でなければ抱けない好意的な気持ちを、果たして愛と呼べるだろうか?
全母たる虚空は何も善悪で測ったり分けたりしない。
そして全てに天意を送ること、それが天からの愛となって還ることを歓んでいる。
善悪を戦わせる台本通りの進行は、全体一つに還る道の代わりにはならない。
エゴ持ちのまま作った台本が土台を気取っても、本題には入らないのだ。
本道に代替なし。
(2021/9/20)