《危と好》
相も変わらず色んな主張を掲げては、わっしょいわっしょい揺らし合っている不覚社会。
暑さに加えて熱い夏になったものである。
この揺れは、危機か好機か。
危ういのか好ましいのか。
人間は起きたことに対し、それぞれが設けた基準によって採点し判断しようとする。
“現実審査員”みたいな気分で分割意識が「これが世界」と見なしている世界、言ってみればマイワールドを審査判定しても、現実側つまり物理次元から指名や採用を受けている訳ではない。
この審査判定をすればする程、マイワールドと実世界は乖離したものになって行く。
多くの人が、「自分に訪れるのは好機のみであれ、訪れた機会は好機となれ」と望み願うからだ。
自国に有利な判定で勝敗を常に決めようとする審査員は、弥栄ではない。
五輪の判定に対する不満や批判が相次いでいるのも、内なるものが外に現れた、わっしょいわっしょいの中の一つである。
こちらは少数派だろうが、危機的状況に見える出来事に対し、「己の力で好機とせん」と意気込んだりする人々も居る。
「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」的発想。
これもこれでエゴだが、己の尻は己で拭こうと言う完結力がそれなりある分、拗れていない。
そうすると先の「自分に訪れるのは好機のみであれ、訪れた機会は好機となれ」と望み願う人々と言うのは、
うちに来るホトトギスはみんな好い感じに鳴くホトトギスであって欲しい
鳴かずにつついて来るホトトギスは来ないで欲しい
来た鳥はどんなものであれ、つつかず好い感じに鳴いて欲しい
なんてことを、望み願っている人々だろうか。
中々に夢見がちな要求と言える。
調べてみても「嫌機」と言う言葉は見つからなかったが、夢見がちな人にとって、危機は嫌機にあたるだろう。
中心から静かに観ていると、好機も嫌機もない。
毎瞬毎瞬、新しい場面が訪れており、あらゆる機会は気が実に生じさせた点滅の点。
只それがそれであるのみ。
それ以上でも、以下でもない。
着々と変化は起き、世界は生まれ変わっている。
世界が生まれ変わっていると言うことは当然に、人や物も生まれ変わっている。
毎瞬毎瞬、片時も休むことなく。
そこに特定の個人や団体が書いたシナリオを持ち込むことは、出来ない。
不覚体験を積む必要があった時代には「それなりに持ち込めた風」になっていたこともあるが、あくまで「風」である。
そして、もうその時期は過ぎた。
この所、どっと増えた人出のニュースを観察していた時に画面から、「痺れを切らして」の恨みや言い訳が伝わって来た。
待ちかね、そして痺れを切らすと言うことは、「我慢してればご褒美がある」の発想があったのだろう。
誰かや何かからのご褒美を期待しての我慢であれば、途中で崩れても不思議ない。
だが、我慢って何だろうか。
そして、ご褒美って何だろうか。
優劣が消え、好きも嫌いも消えた中心では、
我慢とは、良かれや欲しがりから我がする慢心であり、
至福と弥栄の歓びを前に、どんなご褒美も色を失う
ことは、明らかである。
危も好も、感謝で返却。
(2021/8/2)