《判と祝》
「わぁ、曇天」
春めいた日が増えて来たこの頃。
その中に、突然冬が舞い戻った様な空模様の一日が挟まったことがあった。
丁度その時に、白と黒を混ぜると出来上がる「灰色」に意識を向けていたこともあり、面白く空を眺めた。
不覚のちいさな人であった頃には、こうした灰色が空に広がっていると胸躍らせたものだ。
難事件や怪事件の発生と探偵の活躍を、予感させる気配を感じたからである。
ちいさな人時代には、探偵になるつもりでいた日々もあった。
静かに尾行をする才能に全く恵まれていないことを知って夢破れた後も、灰色の空には憂鬱ではなく「これから何か起こるぞ!」みたいな謎のワクワク感を抱いていた。
だが世間では、灰色に対してそんなイメージを持つことはあまり無い様である。
本日はホワイトデー。
2019のホワイトデーにはこんな記事を書いた。
紅白を合わせて出来上がる色に、人は春めいた陽気さや明るさを感じる。
桃の節句や、各地で行われる桜まつりの様なノリで、
「春だ一番 はいいろ祭!」
とはならない。
灰で枯れ木に花を咲かせる様に、灰かぶりと呼ばれた不遇な娘がシンデレラになる様に、空が厚い雲を脱いで春の気配に着替える時、人の心に喜びと共に幸福感が訪れる。
白黒はっきりつけることが出来ない時、中間にグレーゾーンと呼ぶものを設けたりするが、そこに幸福感はない。
気持ちを落ち着かせる、安心感の様なものはあるかも知れない。
「白黒つけなくたっていいじゃん」に、人は安らぐ。
だが別の時、別の場所では、白黒つくことを欲したりする。
世の中丸ままノーサイドと言う人は中々居らず、大体が「己にとって楽で心地よいグレー」のみ、存在を許している。
光と闇、明と暗、勝と敗、善と悪。
何かに白黒をつけようとする時、そこに紅白にある様な祝福の要素を見ることは中々無いと気がつく。
紅白が祝いとすると、白黒は何だろうか。
意識を向けていたら上から
「判」
と来た。
「判(ハン・バン)」は、契約に関する書類を半分にする様子を表す形声文字であると言う。
半(半分にする書類)
+
刂(刀)
半分ずつにした書類をそれぞれで持ち、契約を確認することが可能になっている。
この契約書に押すのが判子で、契約に争いが生じた時に白黒をつけるのが裁判、判定をして出る結果が判決。
「判」には「結論を下す」意味がある。
「わかる」と言う時、一般的な分かるの他に、理解出来ることの「解る」と判別出来るの「判る」がある。
「判る」とは、これとそれは違うと判別は付いていると言う状態である。
白黒もそれぞれの質や価値がどうとかではなく、その時にどっちが白でどっちが黒かと言う、判別が出来る「判る」である。
判の中には刀がある。
この刀を、相手を滅する刃物とするのか。
意識の中に真っ直ぐ立つ神剣とするのか。
これにより、判の質も全く変わって来る。
祝福を、エゴによる判別で行うことは出来ない。
「これはいいものだから祝福しましょう」とするなら、それは祝福ではなく採点や評価や賞賛をしているのだ。
祝福とは何にも傾かず、只いのちの有りて在ることを、その輝きを祝うことだ。
書いたことがあるが行いとしては、拍手が最も近い。
我や情を超えた所に、祝福はあるのだ。
白のみ祝うこともなし。
(2022/3/14)