《凹と袋》
全体一つの流れに沿って世の中を眺めているとふと、
「ここに足してみよう」
と言う気が起きるへこんだ部分、凹を発見することがある。
求められる働きがこの所、質量ともに過剰になっている業界の一つに対して意識が向いた時にも、そんなことが起きた。
人手が足りているかどうかも関係がなくはないが何より、この業界に居る人々の心身にかかる“圧”の大きさは結構ギリギリでずっと来ている。
元々そうした圧に強い人が選びがちな職種ではあるし、使命感とかプライドとか仲間意識等で発生する遣り甲斐で乗り切ったり出来る部分もあった。
だが、医療に携わる人だって人間である。
多忙だったり理不尽だったりと、圧のかかる場面が頻発すれば心身の健やかさが保てなくなることはある。
実際、ガタピシしている様子もあちこちに見られる。
強いプロ意識がそう見せなかったり、安心させてくれるプロで居て欲しいと言う願いがそう見せなかったり。
そんなガタピシ補正フィルターがかかっていると見えにくいが、何の要求も挟まずにそのまんま見ると、結構ガッタンガッタンしている。
そうした状態を観察していて、とても単純な問いが浮かんだ。
「お大事に」って言う係の人に、「お大事に」って誰が言うの?
大事にする気はないが、誰の御神体でも大事なことに変わりないし、程度差がある訳でもない。
その大事さって誰が言うのだろうか?
世の中をぐるっと見渡してみたが、「お大事に」って言う係の人に「お大事に」って言う係は特に見つからなかった。
医療に携わる人々をそれ以外の多くの人々は“健康のプロ”みたいに見ている。
だから、そんな人々の健康について意識を向けたり何か出来ることを探ったりするのは、釈迦に説法ってことになるのかも知れない。
しかし、
治療は要らなくたって大切にすることは必要。
そう感じていた折に、ひょんなことから色んな植物を刻んで配合した浴用の薬湯を数種見つけた。
使って見ると実に豊かな調和が伝わって来る。
湯に入り薬湯の袋から染み出す色を眺め、広がる香りを吸い込んで、「あっ!そうか人が言うんじゃないのか!」と気がついた。
人が何か言わなくとも、植物やお湯が大切なことを伝える。
成程と了解し、了解の表明がしたかったのでその薬湯の袋達が沢山入ったギフトボックスを買い求めた。
そして、行ったことのあるクリニックで大変誠実かつ「少々尽くそうとし過ぎでは?」位のお働きをなさっている所に届けて、貰って頂いた。
個人的な知り合いでも何でもないし、普段そうした場所に行く機会がなく、大分前に訪ねたきり。
なので驚かれたが、「ノリで行動しがちな存在なので」と言うお粗末な説明でも、ありがたいことに丁寧なお礼と共にお受け取り下さった。感謝している。
気づきで答を返してくれた全母たる虚空にも感謝。
「薬湯袋…お袋だけにね!」
と洒落のきいた虚空からの天意に感謝しつつ大変愉快な気分で笑い、この体験を完了させた。
どんな業界で天意からの愛を発揮するにしても、まず本人の御神体に感謝した上での発揮が基本。
だが余裕がない中で働き続けることが当たり前になると、結構そこを忘れがちである。
意識が喜ぶストレス解消には時間やお金を使っても、御神体にはそうでもなく体調として表現される“お知らせ”もスルー。
そうなると、どんどん分割意識と御神体の調和が乱れる。
良かれで不自然に陥りがちな方々は、今一度丁寧に御神体からのメッセージを聴き取り、感謝を伝える“対話”をして頂くことをお願いする。
そしてどの方も、中立な観察をした時に足りていなさを感じる凹に出会えたら、軽いノリで真ん中にちょい足し出来ないか、意識を向けてみて頂きたい。
先の届け物について本日記事に書いたのは、「誰にでも気軽に出来得ること」だからである。
何の資格も技術も要らない。
特別な存在である必要もない。
良かれも犠牲も出番がない。
只、軽いノリと自然な流れを愛するだけで、十分出会える機会なのだ。
無から有へ伝わる天意。
(2021/8/16)