《冥と明》
「フッフッフ、冥土の土産に教えてやろう…」
劇なんかに出て来る、悪党が善人を取り囲む場面で、こんな感じの「もうすぐそこに送り込みますよ」の意味を含めた台詞を言うことがある。
覚めてからふとした切っ掛けでこのフレーズが浮かんだ時に、
「そう言えば冥土にも観光や贈答のシステムが入り用とは、不覚的発想って自覚なく図々しいものだなぁ」
と、感心したことがある。
そもそも土産に持たすのが銘菓とか民芸品とかじゃなく、事件の真相とか、大っぴらにするつもりはない悪だくみの内容とかである。
一体どう使えばいいのか。
現世の土産話としてどうぞ、ってことなのだろうか。
こんな風に人は、冥土とか冥途とかあの世とか呼んでいるスペースに、現地調査をした訳でもないのにその時の気分次第でリアリティを出し、都合良く色んな要素を盛り込むことがある。
冥と言えば、「冥利に尽きる」と言う表現もある。
不覚的には、その立場にいる者としてこれ以上の幸せはない、と言う時に使う。
この幸せは物質的なものを得る喜びと言うより、やり甲斐や名誉等、精神的なものについての喜びが主となる。
の、はずが冥土と同じ意味を持つとされる「冥加」は命冥加等に限らず、冥加金と言った物質的なものにも結びつけられるのだ。
冥加とは、神仏からの目にみえぬ加護のこと。
その加護に対する謝礼として、寺社に奉納する金銭を冥加金と呼んだ。
それが、江戸時代は商工業者などに課せられる営業税のことを言うようになる。
独占的営業を認められていた者達が、利益の一部を冥加金として上納していたそうである。
冥利も冥加も結局は裏で繋がっていると言う状態は、冥加金の持つ見えない所でやり取りすると言う献金的要素に通じるものがある。
上納とは、上様や上役や目上等の人間ないし人間の作る組織に対するものなので、こうなると冥加金と言っても、もう神仏は関係ない。
人間は冥を使って、暗がりから手を伸ばしたり、暗がりに手を差し入れたりして、密約を結ぶ。
冥の闇は、何かを裏で行う時に便利に使われて来た。
利益や加護と言った“お宝”が有るかもの期待と、
穏やかな眠りの場的イメージに安心感を求める気持ちと、
闇に紛れてバレずに良からぬことをしようと言う企みと、
ホラー要素に怯えて興奮したいと言う欲求が、
都合よく織り交ぜられてある多目的スペース。
冥を観察すると、大体そうした構成で回っていることが分かって来る。
多少の有難味や不気味さを備え付けた物置みたいな扱いである。
死んで花実が咲くものかと、ご冥福をお祈りしますは、どちらも人間が作った言葉だ。
使いたい時に応じて、使いたい方を出す。
花も実もある方と。
福のある方と。
じゃあどっちでも構わないんじゃないだろうか。
だが多くの人は生きている状態にも「つまんない」か「まぁ普通」、又は「普通過ぎて有難味忘れてる」ことが殆どな様子。
一方で「死んじゃおっかなぁ」を言った後に「フフフ…(止めれるもんなら止めてみな!)」としたり、何だか知らないが止めた方がいいこととして扱っている。
じゃあやっぱり、どっちでも構わないんじゃないだろうか。
以前にも書いたことだが、暗く底の見えない冥土の「冥」も又、光り輝き全てを照らす「明」と同じ、「めい」「みょう」の音を持つ。
質についても価値についてもどちらがどうとか言えないモノコトの、片方を持ち上げもう片方を降ろすなどして評価に差を付けているのは、他でもない人の手なのだ。
「冥利に尽きる」の本質を観る時、冥からの利としての幸をこれが運の尽きかとなる程沢山受け取ることではないと分かる。
人がその時に巡ってきた役割を全う出来た時に、見えない領域である冥に対する感謝の表現として、冥利に尽きると表現するのが本来だ。
そこには、名誉や賞賛や報酬がどれだけのものであるかは全く関係がない。
冥でも明でも、元は0。
(2021/11/4)