《全の祝い》
あけましておめでとうございます。
本年も楽しみ味わいつつ、全力投球で参ります。
よろしくお願い申し上げます。
「何と言う、面白いこと」
2023の担当地域を知るダーツをソイヤッと行ってみて、これまでにない展開とその見事さに唸った。
どの年も面白いが、実に楽しませてくれる愉快な年だ。
昨年の10月に、みんなの母神祭2022について書かせて頂いた記事で、年明けに詳しくお知らせすると申し上げた1対1の全力祭。
それについては木曜記事に譲り、本日は年頭の記事として、全体を祝うことについて書かせて頂く。
今更ながら、全とは何一つ欠けのない、全て。
だから人は、惜しみなく持てる力を発揮することを、全力を尽くすとして、これを求める。
その一方で精根尽き果てるまで、燃え尽きるまでと言った、消耗や虚脱を招く方向に繋げて、その無理矢理感に酔ったり、これを避けたりする。
全体一つの流れに沿って力を尽くす時、訪れるのは消耗でも枯渇でもなく、清々しさである。
清々しく満ち足りて、完了する。
その歓びや感謝から、新たなモノコトに向かう力が湧いて来る。
そうして1つ1つ成して行く様を、全母たる虚空も天意で観察している。
無数に分かれた自らの、新しい体験を歓びながら。
何と面白いことだろうか。
そして何と愛しいことだろうか。
この餅一つ一つに優劣がなくても、めでたしと祝うことは出来る。
祝いは、そのものを丸ごと受け容れてそして特別扱いしていない。
覚めぬ状態で、祝われていないものを祝おう、祝福してみようと試みる時、しがちなのが情をかけると言うこと。
これは祝うこととは違う。
劣等生に目をかけて手厚くし一時持ち上げることは、祝うことにはならないのだ。
ここを腑に落としてこそ、全体を祝うことが可能になる。
何だってこのことを書かせて頂いたかと言えば、
一回一回無二の内容の、新しい祭
これにご一緒するにあたり、お伝えしておくことが必要だったからである。
覚めると情に縛られずに、意識がモノコトを飾りなく観る様になる。
この位フワッとしていたものが、
澄み渡り、きっぱり、くっきり、はっきり。
これを面白いと感じるか、風情がないと感じるか。
澄むことで、外に見える自然現象としての霧や霞の美しさが損なわれる訳ではない。
これは良いものこれは悪いものと判定しなくなるので、むしろ何もかもそのままの美しさを感じる様になる。
澄み渡り、きっぱり、くっきり、はっきりとは、見たいものだけ選んで見ることがなくなる、と言うことなのだ。
晴々と新たな年。
(2023/1/2)