《先祖返り?》
成る程こう言うことになって行くとは面白いものである。
そんなこと突然書かれたって意味が分からないだろうから、勿論ご説明申し上げる。
この所、不覚社会の傾向を観察していて改めて気がついたのが、
「もうこれまでの様には行かないんだな」と言うことに何となく勘づいて出て来た薄っすらとした不安。
そこから、「じゃあどうしよう?」となって不覚社会が導き出した方向性が、
やわらかい印象で表面を整えた個人能力主義
であると言うこと。
能力には様々な種類がある。
記憶力、情報処理能力、判断力、体力、忍耐力、行動力、コミュニケーション能力、魅力、交渉力、実行力などなど。
行動力と実行力は似ているが、不覚者にとって行動力はとりあえずフットワーク軽く動く力であり、実行力はそこに「求める結果を出す力」と言った風味が加わる。
「運も実力の内」と言う表現もある様に、個人能力主義社会ではおそらく運も能力の一つに数えられている。
こうした個人に付随する様々な能力の重要度が増す世の中。
ちょっと前までの不覚社会がどうにかこうにか維持して来た
「みんな食うには困らないけどこれで完璧って訳でもない」
状態を米蔵に貯えを作って調整しながら分配する農耕スタイルとするなら、
個人の実力重視は狩猟スタイルと言える。
その日の天気を読める判断力。
獲物を見つける注意力。
それを追いかける持久力。
捕えて捌き食料にする腕力や技術力。
より高い能力を持つ者と協力して狩りをすることが求められ、条件を満たさなければ集団を追われることもある。
狩りに向けて常に武器を手入れして磨いておかなければならないのと同じに、今の今、最新の知識を学んで獲得するプログラミング能力であっても、日々古くなる。
パソコンやスマートフォンの操作に四苦八苦する年嵩の人々に対して
「こんなことも出来ないのか」
と呆れている人々も、状況の変化によって登場する新しい形式に己が対応出来なくなった時に、かつて放ったのと大差ない言葉を年若の人々から頂戴することになるのだ。
その時にたとえ人の獲物が上納されて来るシステムを持っていても、体が衰えることで咀嚼や消化吸収が難しくなる様に、意識が衰えれば築き上げたものを利用出来なくなって来る。
広く見ればそれも又、狩る力の衰えと言える。
不覚の意識にとって、これは恐怖だ。
狩りをする力の衰えは個としての死に直結する。
その為、各種能力を頼りに世の中で上手くやって行くと言う“狩猟”について腕におぼえがある人々の関心はこの先、脳を含めた肉体を「どうやって若く保つか」に向けられる。
億万長者の認知症患者に憧れる人は居ないだろう。
エゴは持ったままで老いを遠ざけようとする、「狩りの為の狩り」にそうした人々はこぞって駆け出して行く。
さて、これって進化だろうか?
「へぇ、意識が農耕から狩猟に戻って行ってみてるのか~」
と気づいて冒頭にあげた感想が出たが、同時に
「ああ、怖いと後ずさりするんだな」
とも気がついた。
とりあえず、知っている感覚に戻ろうとする。
それなりに過ごした年月で作り上げた、知的生命体としての建前を表面にコーティングして。
だから「力無き者は去れ」などと、大っぴらには言わない。
狩りが上手くない人々が何となく行き詰まり、何となく食い詰めて行くことに対して、狩りに長けた人々の中には「誰もが安心出来る社会を!」と声をあげたり何かしらの行動を起こしたりする者も出て来る。
だが大体は狩りの腕前を誇示する為の余暇活動だったり、弱きを助けるスタイルで狩りを行う手段だったりするので、誰もが安心出来る社会の実現は求められていない。
そもそもエゴが外れて虚空に溶けてしまえば、不安も安心もなくなる。
それを分かっていると、どれだけ「いかがなものか!」「大変だー」となっている者達も結局は「やりたくてやっているだけ」だと言うことも自然と分かる。
社会規模での先祖返りも、それはそれでご自由になのである。
振り返る、帰り道の中。
(2021/12/9)