《傾向と対策?》
何だかんだで、スポーツの祭典も一区切り。
開催肯定派と否定派のどちらかに振り切れた人々も居るだろうが、多くはどっちつかずの微妙さを残しつつ観ていたのではないだろうか。
感動!喜び!楽しさ!祝福!
数年前までのノリだったら迷うことなく味わえていたこれらについて、
感動していいのか。
喜んでいいのか。
楽しんでいいのか。
祝っていいのか。
と、これまでにない数の金メダルに手を叩きつつ、ふと
「不謹慎か?」
と緊急事態らしい状況に気を引かれてみたりで、夢中になり続けることが難しい。
これも又、これまでにない体験。
宮司を名乗る“これ”がその間にしていたのはこうした人々の様子に表れる、千々に乱れる不覚の心模様の観察。
同時に、全体の流れに沿って為せることを為し又、成せることを成していた。
つまり普段とあまり変わらなかった。
観察する不覚社会の波が大きかっただけである。
ビッグウェーブ観察の間に色々気づいたが、中でも大きかったのは、人類がこれまでどれ程「傾向と対策」に時間と労力を使って来たかと言うことだった。
そりゃそうだ。
まず生き抜くこと。
更には上手くやること。
そして幅をきかせること。
それらを求めるなら、応じた傾向と対策は欠かせないだろう。
不覚にとれば「皮肉なことに」かも知れないが、これに気づかせてくれたのは傾向と対策がバラバラになってとっ散らかった世の有り様だった。
兎に角、不安が消えていない様子。
自粛したってしなくたって、
ワクチン打っても打たなくても、
賛成したって反対したって、
人が来たって来なくたって、
どっちに向かおうが安全安心とはならず、背後に薄っすらとした不安が残る。
つまり、この状況に対しての
傾向と対策が、全然まとまらない。
まとまりかけると反論で穴が空いて、シューッと空気が抜けて萎んだりする。
全然、仕上がらないのである。
人類が長年役立てて来た「傾向と対策」を、感謝で手離す時期が来ている。
そのお知らせであると気づき、全体の流れに向けて歓びと共に深く感謝した。
中立は傾きを必要としない。
個が求める「上手くやる」も傾きなので、中立であると必要ない。
特定の意向に添った傾きによって、練られる策も必要としない。
個を超えて種も超えた、天意からの愛だけが、次の一歩を踏み出す場所を照らす。
そこを行けば自然と道が開ける。それだけである。
この夏を、個の制限を解く機会として下さる方々は、あの地域には愛や祝福を向けられないとか、あの世代には愛や祝福を向けられないとか、そうした傾きは既にない状態で、秋をお迎えになられることだろう。
歓びと共に、お祝い申し上げる。
真っ向から放つ愛。
(2021/8/9)