何不なにふ自由じゆう

 

様々な野生動物を飼育し触れ合ったことでも有名な人物の訃報を目にして、以前発見した別の訃報に感じた不思議さが蘇って来た

 

自然と手筈と言う記事の中でホッキョクグマについて書かせて頂いたが、こちらはツキノワグマに関するニュースである。

 

昨年11月末、生まれて間もない頃に保護して20年飼育した雄のツキノワグマに75歳男性が襲われ死亡したと言う。

 

母とはぐれたのか一頭だけで居た所を見つけて、体も弱っていてこのままでは死んでしまうと連れ帰り世話を始めたのが男性とクマの出会い

 

 

名前を付け、住む為の檻を用意し、食事を与え、本当に可愛がっていたと周囲の人も語っている。

 

「(クマに)恨みはないです」

 

「怒りはないよ。本人が好きで飼っていたんだし、よその人が怪我しなくてよかった」

 

「(飼っていた男性も)あの世でも悪く言ってないと思うよ」

 

「お父さんのことは悲しいけれど、(クマに)罪はありません」

 

こうした彼らの言葉を眺めて、罪がないなら、何故クマは駆け付けた地元猟友会員にその場で射殺されたのだろうかと首を捻った。

 

 

最初に感じた不思議はそれだったが、すぐにこれは罪に対する罰としての射殺ではなく、これ以上他の人間に危害を加えない様にする為に行われた駆除なのかも知れないと気づいた

 

クマが飼育されていたのは、亡くなった男性が申請した許可が下りていたからであり、申請者不在となった時点でそれは無効になった。

 

人間社会の中で飼育される許可を失った為に、クマは生きる権利も失ったと言うことなのだろうか。

 

ニュース記事には「よほど腹を空かせていたのか、エサ用にバケツに入れていた銀杏が周囲に散乱していたという」と書かれてあった。

 

 

そこだけ見てもクマ的には生きる気満々だった様に映る。

 

「危ないからこの世に居ちゃ駄目!」強制的にログアウトとなったのなら、それはやはり人間側の都合と言う気がする。

 

この辺りも不思議だが、何よりも不思議だったのは20年飼育している間に「ツキノワグマにとって自然な状態とは何か?」に人間側から興味の湧くことはなかったのかと言うこと。

 

自然な状態について調べれば、親離れした後兄弟同士が稀に一緒に行動する場合と、交尾期にオスとメスがペアをつくって一時的に行動することを除いて、

 

基本的に母と子以外は、単独で生活を行うこと

 

 

が知れたはず。同時に、

 

ツキノワグマのオスが行動する範囲は個体差があるが100㎞にも及ぶこと

 

も、知れたはず。

 

群れで行動しない単独行動が基本の生き物だからと言って、檻の中で単独で過ごすのと自由に単独で歩き回る生活とは全く違うだろう。

 

食べるものについても、記事に出て来た男性が餌としてあげていたらしいリンゴや柿、バケツに入れてあったと言う銀杏以外にも調べてみると、本来の食べ物として色々出て来る

 

ドングリなどの堅い木の実に、キイチゴ・ヤマグワなどの柔らかい果実、昆虫類、蜂蜜、花、木や草の若芽(山菜)、ネマガリタケ。

 

 

そして季節ごと食べるもの変える

 

6月のネマガリタケ、10月のドングリ類など、時期ごとに特定のものを大量に食べるらしい。

 

「楽しそうだなぁ」

 

と、クマの暮らし眺めた

 

静かに歩き回り、見つけたもので腹を満たし、気の向くままに過ごす。

 

何も保証されない代わりに、選択と決定の自由がある。

 

知れば知る程、人間側が「何不自由ない暮らし」として提供するものと、クマ側で「不自由がない」と感じる状態には、相当の差があることが明らかになった。

 

何だってこんなことを書いたかと言えば、

 

一方の視点から放つ良かれが、自然な運びに一致することはない

 

 

お伝えすることが必要であったから。

 

「何不自由なく」は、自由が分からないから言えることだ。

 

自由とは何か分かる者は、誰かが誰かを何不自由なくしてやれるなどと思ったりしない。

 

野に生まれた獣を里に暮らす人が育てようとする時など、自由に関する感覚不一致から生まれる荒波生存に影響する程大きくなる。

 

この不自然なあれやこれやも、虚空物理次元において体験としてやってみたかったことの中に入る。

 

 

体験に焼き直しは要らないので、未だかつてどの端末も体験していない点があるならばの、話ではあるが。

 

それなら協力者としてのクマも、「人間側の判断で保護され、限定的条件下で飼育され、許可無効になった時点で駆除と言う一連の動きに対しても、おそらく恨みはしていないだろう。

 

記事の中に、クマの方が恨んでいるかどうかについての記述は一切なかった

 

そこに気づいて起きた理解について、木曜記事にて書かせて頂くことにする。

 

粒同士、恨みっこなし。

(2023/4/10)