《何と煮詰まり》
煮詰まりまくったらそれを切っ掛けにして、先週記事に書いた様に俺が用があるのはこっちかなと気づけるのか。
そのチャンスを求めてでも居るかの様に、不覚社会はワッショイワッショイと各種の騒ぎを大きく膨らませている。
だがご承知の通りそれは、無茶な要求である。
天変地異が起きようが、戦争が起きようが、社会不安が増そうが、意識が自らを守り育てて貰う側であるだけと思って、
「おかーさーん!」
「助けて―!」
「何とかしてー!」
の気持ちを抱いたままなら、気づきようがない。
満足する状態を用意してくれと求める発想なしにモノコトを観察することは、意識が目覚める前でも出来る。
「お先真っ暗とか言うし、黒って何だかおっかないイメージもついてるけど…ん?これは…?」
と、緑の爪痕の背後にある真っ暗な空間を眺めて不意に気づく時。
誰かに何とかさせようと言う意図に、意識が縛られていない。
「何とかして!」と訴えるのも、「何てことだ!」と嘆いて見せるのも、「フン…どうせ…何もしてくれないんでしょ…」と拗ねて見せるのも、大差ない。
どれもアピールであり、求め方があからさまか回りくどいかの違いしかない。
「私はこんなに頑張ってます!」
と、何も要求などしないお行儀の良い優等生風であっても、
「頑張り屋の良い子だから何とかして!」
の求め訴えだったりする。
どんな戦法を使おうと、お子様の発想のみでは無理。
そして、覚めることは戦いではない。
対象を限定しない母性、全母性が開花すると「やって貰う」からも「やってあげる」からも自由になる。
何故なら、どれも虚空と言う自らがしていることだから。
だから「させられる」必要はないし、「させる」必要もないし、「してあげなくちゃ」も必要ないし、「して貰わなくちゃ」も必要ない。
必要なのは、全体一つの自然な流れに沿うことだけ。
その自然が分からないから苦しんでいるのだと言う人は、不覚社会には大勢居るだろうが、個の都合を手離せば自然な流れに沿う。
個の都合を手離したら、他者の都合に良い様に振り回されてしまうじゃないかと怯えるのならその人は
「優しい人に見られたい」「人に嫌われたくない」
と言う自分の都合を手離せないで居る。
手離す個の都合は、自己都合に限らない。
自他まとめて、全ての個の都合である。
意識があらゆる個の都合を手離した後に、時流の手伝いもあってグッと煮詰まりを感じることが起きる時。
それは「!」の驚きと共に進化変容する力を生む。
虚空に溶け全母性の開花した状態で居ると、自ら行動を起こすこと、全体を観察すること、どちらも楽しみ歓び、愛することが出来る。
そして
「そう言えば、「何とかする」の何とかって…何だろう?」
と、当たり前の謎に気がつくのだ。
誰も何かは知らない、何か。
(2023/3/9)