《何でもないこと》
本日は月曜記事にて申し上げた、全体一つの流れの中で分担して巡って来る役割に大きく関わる“或ること”について書かせて頂く。
それは思考ではない。
「思考は現実化する」と言ったりするが、これは
「思考は」“それ”に変化を起こすことがある為、結果として「現実」も変「化する」場合がある。
ことを、端折っている。
折り畳んだ状態にして、見えている一部だけを採用すると、「望んだ現実が訪れるのは思考の手柄」みたいな印象が出来上がる。
「思考は現実化する」のフレーズが世間で目新しかった頃には、このお端折りによって出来たイメージを好み、思考と念力を使った呪い合戦を人々が楽しむ流行りも起きた。
だが、みんなに効果がある訳でもなかったからか、単に飽きたからか、流行に飛びついた人々の「思考は現実化する」への興味は次第に薄れ、多くはまた新たな“おまじない”を求めて、人生を特別にする特効薬探しの旅に流れ出て行った。
人間は、「夢は叶う」に憧れることがある。
その一方で、「叶わぬ夢」と言ったりもする。
叶うのか、叶わないのか。どっちに向かって転がるのか。
叶えようと努力したり、叶うはずないと自棄になったりする時には思考を使う。
だが、「どっちに転ぶか分からない」については、思考を使えない。
この分からなさは「見たそのまんま」であり、思考を使って
「う~ん、どっちか分からない状態にしておくにはどうすれば良いか」
と意図して、その様な状態を実現させた訳ではない。
どっちに転ぶか分からない、どうなるか不明な状態に対して不安定さを感じる下地になっているのは、「現実は思い通りに行く訳ではない」と言う、“或ること”があるからだ。
“或ること”。
それは感情でもない。
感情に、思考には持ち得ない所謂“理屈じゃない”感じの原始的なパワーを見出す人も居る。
だが、不覚者の感情は大体個の都合の枠内で動いている。
怒り、悲しみ、喜び等の強い感情反応をテコに使って“涙を拭って立ち上がり”、ついた勢いで望む役を得ようとすることも、人類は随分と繰り返して来た。
その時々に感情を込めて、自分と言う役者の価値を高める演出をどれだけ試みても、“それ”が変わることがなければ、現実にも大した変化は起きない。
“或ること”とは、認知である。
認知とは、「そこにその人が居る」の様に、「わざわざ言うまでもないあったりまえとして知っている」ことであり、疑いようのない分、思考より明確。
ご存知の様に、人は思考を使って信頼に足るかどうかを疑い、状況に応じて信か不信かの判断を覆したりもする。
一方の認知は、認識を新たにする切っ掛けとなる何かが無ければ、中々変化しない。
認知は個別に有る様でいて、繋がっている。
殊に国や世代文化等、何らかの共通する背景を持つ人々の間で強い繋がりがあり、繋がった中での認知度が上がると、それだけ大きなエネルギーが認知された側に流れ込む。
これはパワーアップと同時にイメージの固定化も起こし、当の本人が余程中立さに自覚的でない限り、固まったイメージと共に存在がそのまま“壁画化”して、時代を彩るレリーフになる。
だから、人類の目覚めをテーマに観察している者としては、世に言う成功者や有名人には自然とあまり関心が行かなくなる。
その時代に必要なアクションを起こしている端末の一例として、時折眺めてみる位である。
人型生命体と言う端末にとって、思考をナビだとすると認知は地図と言える。
どんなに優れたナビゲーションシステムを駆使しても、
地図の外へ出る指示をすることは不可能である。
そして、「世界って大体こう」と意識が定めた認知地図は、全体一つの流れの中で巡って来る役割内容がどの様になるかについて大きく関わる。
それは何であるか、の答は認知。
さて、それが何故大きく関わるのかについては、長くなるので来週記事にて書かせて頂くことにする。
ポイントは認知が、人間にとって「何でもないこと」とされていると言う点である。
何でもないのは、何でもあり。
(2022/1/20)