《今日この日》
本日は「実に普通のこと」として覚めぬ意識が素通りしがちな、今日について書かせて頂く。
今この瞬間を、あるのが当然だとする人は、今日この日についても同じ見なし方をする。
今の日、と書くだけあって今日は今に重ねることが出来る。
今に居ることが難しいなら、せめて今日に居ることだ。
居る、とは意識が「いつぞや」や「いつか」にちらちら目移りせずに集中して、実行を伴ってそれを味わうと言うこと。
楽しい遊園地のことを人は「夢の国」と呼んだりするが、意識だけが浮遊して好みの幻想をイメージ上に映し出す「私設夢の国」もそれぞれに楽しんでいる。
私設夢の国では、今日が今日である意味を持たない。
二つとなく二度と帰らぬ瞬間ではなく、好きなだけ繰り返せるイメージ上映には、今日の必要性がないのだ。
だが、実際全ての幻想遊びはその時々の「今日」に行われている。
今と今日におんぶに抱っこ状態。
そして、意識だけでは幻想を作ることも出来ない。
イメージするにも、材料が要るからだ。
御神体があること。
沢山の御神体が力を合わせて作り出した物で構築された環境があること。
天があり、地があること。
朝と夜が巡り来ること。
火と水があること。
様々なかたちといのちが有りて在ること。
どれ一つとして欠かすことは出来ない。そして、
空間を含めたそれら全て、虚空から生まれている。
覚めぬ意識があらゆるものを差し置いて己を最優先しようとするのは、かたちなき空意識と自分とをイメージ上でイコールで結ぶからである。
結局自分が作ったものだ、と見なすことで驕りが出る。
だが、この世界はちっちゃな分割意識が創造主になって作ったものではない。
分けることの出来ない全一なる虚空は、自らについて「自分」とは言わないのだ。
それでも多くの覚めぬ意識は創造主を気取り、好き勝手に膨らませたイメージ世界と同じ様に、目に映る世界を思い通りにしたがる。
「自分が」と言っているのにも拘らず、部分であることに気づかない。
そして全体に貢献することなく全能感だけを欲しがる。
虎のではなく、空の威を借る状態となっているが、当たり前にそれは叶わない。
空に威はないからである。
全能感を欲しがるのは、全力で貢献せずに余した力が頭に血を昇らせて、欲望が膨らむからだ。
「ああしておけば」
「こうしたならば」
「ああは言ったが」
「こうしてもらえば」
ああだこうだを繰り返し、粘土細工の様に「気に入るイメージ」を作り上げる遊びに使った力は、欲求不満を慰めはするかも知れないが清々しくはならない。
夜が来て一日の終わりを感じつつ、「今日をやり切った」と満足する清々しさには、代えられない。
そして清々しさは、新しい爽やかな今日を生むのである。
さて今日、何する?
(2023/7/20)