《云と白》
かつて人間は、自らを形成する気に陰陽の二つがあり「陽気の霊は魂、陰気の霊は魄である」として、霊も二つに分けたと言う。
魂と魄の両「たましい」は、先週の記事で申し上げた通り「魂は精神」「魄は肉体」をつかさどる神霊として分けられてもいる。
つまり、
魂‐陽気‐精神
魄‐陰気‐肉体
と、言うことになる。
魂でも魄でもそれらを普段、目で見ることは出来ない。
だから「これこれこうなのです」と、誰がどんな風に言ってもそれを完全に否定することは出来ない。
そして、完全に肯定することも出来ない。
何にせよ「はい、これでした」と確定することが出来ないのだ。
覚めないまま個人的都合を懐にしのばせている場合、見えないものに関して出来るのは、気に入った説を信じたり追いかけたり、逆に気にくわない説を否定したり無視したりする位である。
個人的都合と、それに合わせてする目論見について、
「散々使って来たけど、結局これじゃないんだよな。そして、これからはどんどん使えなくなって来るんだよなぁ」
と気がつき、手離すと決めて初めて、見えないものについてシンプルに受け取り、静かに腑に落とすことが出来る。
魂魄について、「目に見えてハッキリしている」点もある。
それは、魂の字が云+鬼で出来ていることと、魄の字が白+鬼で出来ていることである。
普段開けない当宮左側からちょいと借りると、「云」の字は「もやもやした様子・口ごもる様子」を表した象形文字。
意味は「雲」「もやもや」「ふわふわ」であると言う。
目に見えないうえに形も定まらない。
漢字の部首は「二」。二心とか二言の様に、翻ったりもする曖昧なものであることが表れている。
「いう」には「言う」だけでなく「云う」の字を使ったりもする。
単なる略式表記ではなく、「言う」には「明言する」の様に「はっきり」、「云う」には「云々」の様に「口ごもって」「引用して」と、発し方に違いがある。
云の発し方は、もやっとしたりふわっとしたりしている。
雨に関係するふわふわ、と言うことで大気中に集まって浮いている水滴や氷晶は「雲」の字で表される。
しかし先の様に、云そのものにも「くも」の意味があるらしいので、どこまでももやもやふわふわと実体がない感じ。
雲行きが怪しくなるなどと言うが、知らぬ間に現れて、簡単に空模様を変えたりして、何処ともなく去って行く。
「魂」となってもそれは変わらず、「○○魂」とかキリっとした感じで使っても、あぁこれだと掴むことは出来ない。
云(もやもや)+鬼(死んだ人・霊)=魂(もやもやした人間の魂。たましい)
「もやもやした人間の魂」を表す形声文字だとする所がもう、意味的にふわふわしている。
ではもう一方の魄はと言うと、白は「骨」を表している。
申し上げるまでもなく骨には硬軟はあっても、もやもやもふわふわもしていない。
要点を骨子と言ったり、基本の基と並べて「骨格基盤」なんて表現したりする様に、骨は「確かなもの」とされる。
実際保存状態によっては長く残すことも可能。
確かなものとしているから、魄を「地に残す」と言う進路も編み出されたのだろう。
平安時代に編集された漢和辞典「類聚名義抄」の観智院本に、魂魄の魂に対しては「ヲタマシヒ」、魄に対しては「メタマシヒ」と訓を記している部分があると言う。
オッスメッスで、分けてるのか。
と、ふと浮かんだのが、
ふんわりもやもやした「魂」と、しっかりした「魄」。
がっちりした「男」と、やんわりした「女」。
これら四つの文字を見ていると、先に挙げた「魂‐陽気‐精神 魄‐陰気‐肉体」もそうだが、一つのものを陰陽や男性性女性性で分けても、相互に役割の入れ替えが出来ることが分かる。
分けても分けても分けられぬ。
分けた中でも行き来する。
それを素直に認める時、「○○はこう言うもの」と気に入った風に限定しがちな意識の縛りが緩んで来る。
魂魄について集めた資料の中には、「人間の体内のエネルギーである気をつかさどるのを魂、形体をつかさどるのを魄」だとして、その進路について天地で分けるのではなく、
「人間が死ぬと魂魄の両者は分離して上下に飛散するとも考えられた」
とする説明もあった。
飛散。
「バーン!バイバイ!」とは中々のシンプルさだ。
虚空から物理次元へ現れる生滅について意識が感じ取って表現したものであるなら、面白いことである。
天地に境目なく、
云白も同源なり。
(2022/6/13)