《両手に穂?》
「そう言えば何で?」
嫌について調べていて、ふと謎に感じたことがある。
そのことを申し上げる前に、まずは嫌の字について書かせて頂く。
分解すると
女+兼
「女」と「両方持つ」とが合わさって、女性が嫌がっている様子を表す文字なのだと言う。
何故、女なのだろうかと言う問いは特に浮かばなかった。
直ぐにこれは、女性性及び実行体験を担当する御神体を示していると腑に落ちたからである。
女偏を、女性型の人型生命体のこととしたなら嫌の字は、
「男は従わせる者、女は従う者」
の発想から来ているとでも解釈されて、令和には
「セクハラよー!」
が叫ばれるんじゃないだろうか。
当宮にご参拝の皆様は、人型生命体は目に見える性別に関わらず、一体の内に女性性も男性性もあることはとっくにご承知なので、この辺りはもう掘り下げずに話を進める。
兼は、2本の穀物を持つ様子を表す字だそうで、嫌の字には穀物を両方の手に持って実行を渋る様が表されている。
兼ねることの出来ない実行とは、何だろうか。
お風呂に入りながら読書とか、赤ちゃんを抱っこしてお買い物とか、2つ以上のことを兼ねられる動きもある。
だが、2つの場所に同時に居ることは出来ない。
1つの試験において、合格しながら不合格になれない。
2つの体を同時に持てない。
痩せながら、太れない。
多重人格はあっても、多重体格はないのだ。
この、マルチタスクとかでは何ともならない実行体験をするにあたり、両手に花でなく両手に穂の状態でプルプルしているのが、嫌。
穀物とは実り。結果の出る実行の出し渋りは、御神体がしているのだろうか。勿論、そうではない。
何をするかを決めるのは、分割意識の仕事である。
意識の決断を、御神体は実行と言うかたちに昇華してくれる。
だから覚めないままの分割意識が 、
「やりたくないけど、やらなきゃならない、やりたくないけど、やれといわれる、やりたくないけど、やらないわけには…、でもやりたくない!」
を繰り返している間、御神体は動くのか動かないのか決まらない状態でずっとプルプルしている。
しない、と決めることも出来るのに。
只その場合は、しないことと、しないと表明することによって付いて来る結果を受け取ることになる。
しないことによって、立場や進路が変化するとか。
しないことによって、欲しいものが手に入らなくなるとか。
しないことによって、得ているものを手離すとか。
「そうした結果を受け取るのも嫌だし、かと言ってやりたくないことをやるのも嫌」
と、決断をせずに嫌がって先延ばしたり逃げ回ったり、嫌々やろうとしたりする時、分割意識の優柔不断や葛藤に付き合ってくれる御神体も、プルプルしながら動く。
そうなると、不自然な疲れ方をしたり変てこな結果になったりする。
冒頭の「そう言えば何で?」はしないことの決断、「断る」について意識を向けた時に出て来た。
決断、断定、これには拒否の意味はない。
異なるものなのに、何でか拒否や嫌悪と一緒くたにされている感じがする。
そのことが不思議だったのだが、これは「ハイと言う素直な心」とか「良い顔で良い返事」と言った不覚道徳を割り込ませて物を見た時に、「お断りは感じ悪」としてまとめられたものかも知れないと気づいた。
断っちゃいかんと言うことは別にない。
断った結果起こることを丸まま受け取れるなら、それは一つの決定であり、そこに良い悪いはない。
断の右側の斤は「斧」を意味するが、退路を断つと言ったりもする様に、自分を守る為に使われる斧ではない。
両手に穂の未練を断ち切る斧なのだ。
揺れながらは、進み難し。
(2022/12/5)