《三日坊主?》
本日で三月も終わり。
明日からは新年度がスタートする。
正月、旧正月、年度末新年度、春夏冬休みの終わりと明け、彼岸の入りと明け。
終わりと始まりによる切り替わりが、一年の中には幾つか設けられている。
毎瞬常に新しいのだと言うことを忘れがちな方は、こうした分かり易い機会を活かして切り替えを行って頂くと、古いノリや癖から抜け易くなる。
とは言え、
「最初は気持ちも新たにやる気十分だが、三日しか続かない」
と言ったプログラムを採用している人も世の中には結構居る。
そして、「飽きちゃ駄目!」「又、続かなかった」等の、これまたあるあるな反応をしたりもする。
その下りまで織り込み済みの、お約束プログラムであることも多い。
こう言う時こそ良し悪しでない、
「何故、数日で新鮮味がなくなるのか」
「慣れたノリに戻るのは大体何日後か」
「その周辺にどんなことが起きているのか」
と言った数々の興味深い観察を行う機会に恵まれている様に感じるが、その三日辺りの己に注目している人を見たことがない。
三日だろうが、一週間だろうが、一か月だろうが、「大体どの位で戻るのか」は、確認出来るはずである。
それをせず「長続きしない自分」「癖強めな自分」を打ち出して、「人間誰しもそんなものですよね」なんて、親しみを出した上での社交に使ったりする。
そうしたちゃっかり加減も、覚めると全部丸見えになる。
ちゃっかりコミュニケーションも別に悪いことではないが、慣れたノリを重ねて行っても癖は取れず、乾燥して壁画になって行くだけである。
芸術作品になれるならいいじゃんかと不覚の意識が思っても、見渡す限り延々と続く壁画なので正直レア感は全くないし、誰かに見て貰える保証も全くない。
単純に、記録として固まるのみ。
三日坊主とは、修行に耐えられず三日で俗人に戻る僧侶の姿から生まれた例えだと言われている。
この「三日」はとても短い時間、あっちゅう間のこと。
「三日天下」とか「美人は三日で飽きる」等の三日と同じになる。
修行して徳の高い状態になることは不覚の人にとってある意味の理想だろう。
天下を取って高みに君臨することも不覚の人にとってある意味の理想だろう。
美人だったり美人を射止めることも不覚の人にとってある意味の理想だろう。
こうして眺めてみると、三日で壊れるのは坊主や天下や美人と言った形式をとって表れる「理想」なのだと分かる。
支配同様、理想の追い求めもお勧め出来ない。
何故ならその理想は、エゴの基準に合わせて作られたものだからだ。
理≠理想
エゴ持ちの意識が「こんなのがいいな」と想って作ったのが理想である。
理とは異なる。
何の理想も被せずに只ありのままを観察する時、そこにあるのは良い悪いのない変化である。
春に三日の晴れなしとも言う。
空には理想を持ち込めない。
空にも理想の入る余地はない。
内側が晴れ晴れと澄み渡っていれば、外の雲や風雨も面白い変化として観察出来る。
変化する空に瞬間の新しさを感じる時、今に居る感覚は磨かれて行く。
理想で真理は作れぬ。
(2022/3/31)
3月のふろくはなしで、4月に2つご用意致します。