《にべと素っ気》
「味も素っ気もない」は、「味がない」に「素っ気ない」が混交して出来た言葉だと言う。
足したり重ねたりすることで、よりその意味を強める狙いがあったのだろう。
「素っ気ない」の語源について調べてみたら、古語の「素気なし(愛敬がない。つれない)」の読み方が変わったものと出て来た。
「すげない」を当て字で「素気ない」と書いたところ、「そっけない」と読まれるようになったのが由来らしい。
出所が同じとして、そっけないとすげないはそれぞれニュアンスが異なり、使い方も違って来る。
世の中的にはこの違いをどう捉えているのか調べてみると、
「そっけない」は、相手に対して関心や、好意、思いやりを示さず、愛想のない言動をするさまを表わす。
「すげない」は、言葉や言い方が冷淡で温かみがなく、思いやりがないさまを表わす。
こう書いてあるものを見つけた。
どちらにしろ無情、と言う感じは似ている。
情を素としていることの矛盾については誰も言わないが、素っ気ないや素気ないだけでは足りなかったのか、似た言葉のバリエーションはじゃんじゃん増やしている不覚社会。
例えば類語として併記される「つれない」の説明には、「人に対する接し方が思いやりがなく、無愛想で冷淡であるさまを表わす」とあり、同じく類語とされる「よそよそしい」の説明は、「親しい気持ちを見せず、他人行儀であるさま」とある。
「まとめられるのでは?」
となったが、一つにまとめるどころか、更には「全く愛想のないさま」として「にべない」、「人の頼みや相談にとりつくしまもなく、冷たく拒絶するようす」として「けんもほろろ」がある。
「そっけなーい!」の不満については、言っても言っても足らないと言うことだろうか。
素っ気と同じく「ないぞ!」とされる「にべ」とは、魚の名前であるらしい。
この魚の体内にある鰾(浮き袋)は粘り気が強いことから、接着剤の原料として使用され、「膠」や「鰾膠」と呼ばれた。
粘着力の強さの意味から、「にべ」は他人との親密関係を意味するようになり、それがない、ひどく無愛想に感じられることを「にべもない」や「にべない」と言う様になったのだそうだ。
強調語には「にべもしゃしゃりもない」がある。
また足して来た。この様に、本当にキリがない。
大体魚としてのにべは鮸と書き、その浮き袋は鰾なのに、鰾膠で「にべにかわ」。
ここから鰾をもいで膠の字だけ残したものが又、膠も無いと漢字で書く時に「にべ」部分に当てられていたりする。
にべ。にかわ。どっちなのだろうか。
そして素の気って、にべやにかわなのだろうか。
まさにタコ足。
どんどん分かれて意味もばらばらになったものを又くっつけて、にべと素っ気と言う似ても似つかない言葉同士も繋げ合わせたりするので、タコ足とタコ足が絡まって迷宮化している。
とりあえず「そっけない」と「すげない」に戻って、両者をまとめる「素気」とは何なのかを調べたら、「思いやり」や「愛想」の意味だと出て来た。
思うことや想うことが「素」?。
思うだけならそれこそ色んな思いがあるだろうが、思いやりは優しさを前提とした配慮と言うことだろうし、愛想も優しくしよう同時に優しくされようとする配慮。
「素っ気ない」の裏を返せば、「やさしい世界への期待」が出て来る。
配慮って、素だろうか。
情、親密、思うこと、想うこと、優しいこと、配慮。
色々出て来たが、どれも素と言うより、素がこうであって欲しいと色付けをしてある。
そしてその色合いは、個人の好みによって変わって来るのだ。
未だに人類には「素気」と「好き」の区別もついていない模様。
だが、不覚社会でお約束を塗り重ねて作った粘着も、日に日に力が弱まっている。
古びたにべがあちこちで剥がれ始め、新しい世界の丸ままのシンプルさが見える様に変化している。
素の気も、個人が期待をして彩色した寄り道状態から元々の、誰にも色付けされぬ本来の輝きを放つ様になると言うことである。
素も、元に。
それを基に、日の下、本道を行く。
(2022/10/10)