《どうじゃこうじゃと?》
ぐるっと一通り嘆き責めについて書かせて頂いたので、再び「慈」に話を戻してみることにする。
慈の字を改めて観察してみると、
「小さい物が育つ様子」を表す茲が、心の上に置かれている。
茲
+
心
ここから、「慈」は「小さい者を育てる心。いつくしむ」の意味を持つ。
人々の間で慈悲や慈愛の話になる時に、「正しさ」や「優しさ」「懐の深さ」「徳の高さ」がイメージされるのは「小さい者を育てる大きな者」に、人はそうした要素を求めるからである。
慈悲深い存在として、人は人の他に仏をイメージする。
この時に、仏罰と言う概念はほっぽらかされる。
不覚特有の能力に、「その時に求めていないものは、無いことに出来る」奇妙な力がある。
部分的にしか世界を見ていないからこそ出来る力技である。
世界が包み隠さず丸見えになると、この辺はちょっと無理な動きになるので、やっている人はそれはそれで楽しんでみるのも一興だろう。
仏教では、慈悲とは「仏が人々に、楽しみを与え、苦しみを取り除くこと」であると言う。
もう少々詳しく言うと、
幸福を与える「与楽」の部分が慈。
不幸を抜き去る「抜苦」の部分が悲。
と、分かれているそうである。
植物の若い芽で言うと、
成長を促す水や肥料を与えるのが慈。
妨げる石や虫や雑草を取り除くのが悲。
となるだろうか。
その分け方や扱い方を眺めていて、「おや」と気づいた。
人間は「苦楽を共にする」って、割と味わい深い状態として扱っていないだろうか。
苦も楽に変わっていそうなお二人。
片っ端から慈悲の手腕で苦だけ引っこ抜いていけばオール楽々モードとなり、そうした味わいも無くなるが、その辺は構やしないのだろうか。
それとも「絶対に有ってはダメな苦」と「この辺はほろ苦位だからヨシなもの」を分ける基準があるのだろうか。
だとしたら、その基準は何によって決まっているのだろうか。
覚めぬまま人々が意識の中に保つ奇妙さは、時折ちんぷんかんぷん。
分かったのは、仏教の言う「悲」が苦を嫌うものであると言うこと位である。
“南無釈迦じゃ、
娑婆じゃ地獄じゃ極楽じゃ
どうじゃこうじゃと
言うが愚かじゃ”
世間に向けて、その中に居る苦を嫌う人々にも向けているだろう、一休宗純が遺したこの言葉。
慈を観察していた折に、ふと浮かんで「ん?」となった。
愚の対義語を調べると賢と出る。
愚だぜと指摘、
ってことは?
「もしかして一休、賢推し~?!」
と、大笑いした。
つくづく楽しい坊さんである。
人生を謳歌し世に謳われる人となっても、愚を指し示す手の裏に、賢の重要を忍ばせるなら、結局の所、上から目線、天から目線を出てはいない。
「何もかも、なーんでもなかったわ!」
と、腑に落ちた驚き。
言葉を失う程の呆気なさと清々しさ。
言語化出来ずとも腑に落ちる実感は静かに満ちて、
南無釈迦や娑婆や地獄や極楽の括りが何故出来たのか、
それらも含めて万事了解出来る。
全体一つの流れに溶けたまま有りて在ることを味わいながら観ていると、世の瀬に浮かぶちんぷんかんぷんの奇妙さは「分離状態にある人々がわざわざ掻き回して作る泡」と分かる。
一つ一つの泡の成り立ちや理由を追ってみても、程なく消える。泡だからだ。
掻き回す動きでどうにか混ざろうとしているのかも知れない。
混ざらないとベソをかこうが、優しく代わってくれる母は来ない。
怒って水を叩こうが、厳しく導いてくれる父も来ない。
自ら母であり子、子であり母だったと分かり、
全母から生み成された分神達の愛の発揮の集合体である、
「全なる父」を物理次元に現す。
これが本来の流れでありその中で、進化変容したい者の元に駆け付けて何とかしてくれる保護者の出番がないことは明らかだ。
そしてこう言う時だけ「自分は居ない」のフレーズを都合良く使っても、何の誤魔化しも利かないことも明らかである。
自由意志で独立し、全ての傾きから手を離さなければ、
意識を虚空に還し全体に溶けるのは無理な話なのだ。
言うが愚かも、どうじゃこうじゃじゃ。
(2022/3/17)