《からのくら》
毎月13日は虚空蔵菩薩に縁の日で、本日はいわゆる初虚空蔵。
人型生命体は、虚空を内に宿した蔵とも言える。
毎瞬新生する世界に、
無を内包する有として、
存在出来ていること。
その面白さや素晴らしさに改めて感謝する日として、カレンダーの1月13日と言う区切りを嬉しく眺めた。
尤も、不覚社会ではそんな日になってはいないらしい。
虚空蔵菩薩は、人々に智恵や知識、記憶等の面での利益をもたらす菩薩と言われている。
面での利益。
虚空蔵とは、「虚空の母胎」という意味のサンスクリット語「アーカーシャガルバ」の漢訳。
そこから虚空蔵菩薩とは「広大な宇宙の様な無限の智恵と慈悲を持った菩薩」を意味するとされている。
智恵と慈悲。
面、つまり部分の利益のみ求めるなら、
それは空の御祝いでなく、
我の御呪いの一種であるし、
智恵も慈悲も、持ちものではない。
やればやる程どんどん虚空や無限から離れて行く感じになっているが、
「菩薩だからかな」
と、頷いた。
御存知の方も多いだろうが菩薩とは“菩提”と表す悟りを求める、衆生を意味する。
仏教では、声聞と縁覚に続く修行段階とされる、つまり途中の状態。
仏(仮)、みたいな感じである。
仏道を志したことがないので、仏教習の現場がどんなシステムになっているのか詳しくは知らないが、仮免状態であればとにかく
「安全運転で!」
と、智恵とか知識とか記憶とか、出しても支障なさそうなモノコトだけ、選んで渡そうとなるのかも知れない。
それが智恵とか知識とか記憶とかに用事があって、そこだけ欲しい人のニーズとマッチ。
仮免仏と仮免人のWin-Winな関係が出来上がっていたのなら、そりゃそれで愉快な体験でしたねと虚空蔵菩薩に関する資料を楽しく眺めた。
申し上げるまでもなく、
虚空とは、空であり、空なのだ。
だが人は、蔵が空であることを嫌う。
不覚者にとって「蔵が建つほど豊か」とは、家に置き切れない財産を所有すると言うことで、空を内包する存在として立ち上がることではない。
「蔵は空ではなく、宝が入っていて欲しい。
それも出来るだけ高い価値のあるお宝が。」
そんな風に人々が願う一方で、物理次元にある蔵は物置と化していることも多い。
そこには「持っていたことも忘れていたもの」や「先代が買った、使い方が良く分からないもの」、「何で有るのか、それが何なのかさえ不明なもの」が埃を被っていたりする。
「この中、何入ってんだったか」「え~~~っと…これ何だっけ」となろうが、それでも「お宝」と「所有」への執着を手離せないのが、覚めない人々のややこしさである。
蔵を「価値ある物を守る殻」として捉える時、
自らを虚空の蔵であると分かることは出来ない。
虚空の母胎を虚空蔵と表現するのなら、その母の宝とは子宝であって、値打ちものとは違うことは明らかではないだろうか。
母は子に値を付けたり、競りに出したりはしないものである。
空の蔵から生み成す全。
(2022/1/13)