《おはこのはこ》
「そう言えば、何でだろう?」
先日、ひょんなことから興味が湧いた言葉がある。
それは、
十八番
「得意とする芸。また、得意とする物事」を表すこの言葉。
箱に入れて秘蔵する意味から、これを「おはこ」とする読み方には、外国の人なら頭を抱えるだろうか。
歌舞伎の市川家が、お家芸とする新・旧各十八種の得意の狂言の台本を箱に入れて、大切に保管したことから出た語と言われている。
だが、「カラオケで十八番の歌を披露する」などと言う表現からは、レパートリーが18×2ある感じはしない。
家で代々受け継ぎ守り磨くものと言う感じもしない。
一個人にとってお決まりの、お気に入りの、大得意の、何か。
こうした意味の変化ってどの辺りで起きたのだろうか。
十八番の意味には続けて「興にのるとすぐに出る口癖や動作」ともあった。
これも家は関係なく、一個人のことである。
口癖と言う部分が目に留まった。
癖になっている得意技なのか。
おはこをそのまんま「御箱」と表記した場合の意味も調べると、「最も得意とするもの。得意の芸。得手。十八番。転じて、その人の癖」とあった。
やはりここでも癖が出て来る。
何代にもわたって何かを保存し、洗練させ、磨き、世に問うて行く時に、個人の持つ癖はそれを歪めたりしないのだろうか。
1832年に七代目市川團十郎が数多ある歌舞伎の演目の中から、歴代の團十郎が得意としていた演目を選んで歌舞伎十八番と呼ぶと発表したそうだ。
もしかして「團十郎の癖」を人数や手間暇をかけて保存する活動なのだろうか。
これだけかまわぬかまわぬ並べると、逆に構ってる感出る気がする。
天保から200年くらいかけて、その中身はどう変化したのだろうか。
謎が謎を呼ぶが、演者が代替わりするのに前後して観客達も代替わりしている訳で、200年通しで観ている者が居ないので出来ることは往時の記録を紐解いてみる程度。
だが、まるっと観る人間が居なかろうと、全母たる虚空は全て観ている。
十八番の中身に進化も深化も起きていなければ、どれ程立派な箱に納めてあってもやがてはそれも時の波に洗われて消えるだろう。
「暫」「勧進帳」「助六」「鳴神」「外郎売」etc。
世に知られる名作を代々続く名家が保存する動きであっても、華やかな雰囲気だけ借りて「十八番」を名乗る一個人の得意芸であってもこの流れは変わらない。
書や骨董品を鑑定士が箱に入れて本物だと署名したことから、「御箱=本物の芸術」という意味も後に生まれたらしい。
御箱を仏教の教えに由来すると言う説もあるそうで
「あぁ、確かに何かと箱に入れがちな所ある」
と納得した。
秘伝にしたり秘仏にしたり秘宝にしたり、BOX仕様だと豪華版と言う感じがして有難味が増すのだろうか。
伝来させたてのフレッシュ感が残る時代の有名僧にはプロデューサーとしての手腕に優れる端末も多く、衆生のニーズにも合わせて盛られたサービスだったのかも知れない。
しかし、箱に入れては積みしておく蒐集の時代も既に過ぎ、世は開化の波に洗われている。
当宮にご参拝下さる皆様におかれましては今更、形だけの十八番保存に執心する方はいらっしゃらないだろう。
得意なモノがあること自体は、良くも悪くもない。
十八番として来たものに向き合い全体一つの流れの中で果たせる役割があるものかどうかを中立に観ることが出来るなら。
役があればそれを果たし、なければ慣れ親しんだ十八番にかまけず新しい役割に向けて進むことが出来るなら。
それは、まさしく弥栄である。
開けて、出して、観てみよう。
(2022/10/24)