《あいのもと》
ぐりとぐらを通して伝わる母性と慈愛は、一体何処から流れて来ているのか。
全ての愛は天意に、そして全母たる虚空に帰着する。
知りたいのはそこまでの経路である。
小さな双子の野ネズミから遡って、彼らから溢れる愛の来た道を辿り、作者の二人に、そしてこの姉妹を生み育てた母に行き着いた。
姉の中川李枝子氏は、ご自身を育む環境の担い手となった母について、この様に語られている。
“考えてみると私たち(百合子は妹です)の母は台所で溌溂としていました。戦争で食糧事情が最悪のときも愚痴をこぼさず創意工夫で切り抜け、食卓を楽しく、家族を心身ともに満腹させることに全力投球していたようです。
お弁当作りも張り切って栄養満点、おかずの満艦飾にしてくれるものですから学校に持っていくと友だちが面白がってのぞきこみ、私は恥ずかしくて玉子と梅干しだけのお弁当に憧れました。
それなのに私もまた、家族の食事やお弁当に情熱を傾け、我が子の口に入る一匙もおろそかにできない母親になってしまいました。妹も同じくです。
ぐりとぐらにもそれがうつったにちがいありません。おむすびでもサンドイッチでもサラダでも一所懸命まごころこめて、しかも楽しく作るので、子どもたちは「おいしい」と、とても喜んでくれるのだと思います。”
真心は真心に愛の火を点す。
母から子へ、子から物語の中に暮らす小さなネズミへ。
絵本を通して彼らに出会う、沢山の人々へ。
聖火リレーと異なるのは、受け渡しではなく、拡がりであると言うこと。
一人から、数人へ、更に無数の人々へ拡がる。
それにしても、
一所懸命+真心+楽しさ→美味しさ
とは、大変面白い成り立ちである。
義務感では、腕前を誇る興奮は起きても、純粋な楽しさは生まれない。
作る方も食べる方も次第に重たく感じるものが出来上がるだけである。
全力で、真で、楽しむと、
その美味しさは、歓びとなる。
作者姉妹の母も又、母の母から点された愛を表現したのかも知れない。
が、取りあえずはそこまで遡ることが出来て満足した。
姉妹を含む五人の子を育てながら、日々楽しんで全力投球。
さぞかし面白い人生であられたことだろう。
巡って来た役を全力で楽しまれたことに拍手を送る。
そして『ぐりとぐら』の生みの親の、そのまた生みの親にあたるこの人物の、名前や当人の言葉が資料の中で特に出て来なかった所にも拍手を送る。
己が名を高める為の、家事や育児ではなかったと言うこと。
子が果たした仕事と成果を、己が手柄として世に知らしめようとしなかったと言うこと。
この様に、目立った場所に名を記さない、静かで地道な愛の表現者が無数に居た時代もある。
昨今の不覚社会では「有名な○○さん」が居ると、その親や恩師が当人について、そして親や師である自分について語ることが珍しくない。
聞いて記事や本にしたい側の都合もあるので、呼ばれもせずにしゃしゃっている訳でなく、需要と供給が一致している個人の手柄が重要視される世の中だからだ。
そうした記事や本を資料として読んで「うちの子も!」と奮起する親も居るだろう。
だが、どんな功績であれ、その手柄を支えた手柄であれ「○○と言う自分が!」の念が入る時、あいのもとからは自然離れて行く。
虚空に固有名はないからである。
もとに在るほどまこと輝く。
(2022/2/17)