《風の通りて》
体が軽くなりヒョイヒョイ動く様に変化したことは先だって申し上げたが、ここ最近は軽さに一層の速さが増し、新たに驚いている。
歩くのも、その速度に「えーーー!こんなに速く!?」とビックリしながら楽しんでいる。
イメージで言うとこんな感じになる。
速いが、勢い余って“暴走”みたいな感じになることもなく、加速と減速が自在。
先日、走ったりなどすればまず間違いなく注意される場所で、定まった時間内に目一杯の用事を詰め込んだ時にもこの切り替えの早さが大変役に立った。
基本は競歩みたいな「ぎりぎり“歩き”の範疇です」と言うスピードで、
人気のない場所では軽快な小走りも混ぜる。
性能のいいミニ四駆みたいな動きで広い館内を移動し、時間内に必要な情報を集めることが出来た。
相当マニアックな需要しかない場所を目指して走っていた折、突然遭遇した職員を轢いてしまう前に一瞬で減速出来た時、「あれ、これ便利だな」と、加速と減速の精度が上がったことの有難さを再確認。
その方の視界から消えるまで競歩の速度を保ち、失礼させて頂いた。
御神体の反応速度も増せば、気づきの速度も増す。
話は変わるが、そう言えば不思議な言葉だと「風呂」について調べていて、元は現在の様な湯を張ったものはそのまま「湯」、蒸気を浴びる蒸し風呂を「風呂」と言っていたことを知った。
「それで湯呂じゃなく風呂かぁ」
と、納得したのも束の間、
「で、呂って何?」
となった。
知りたいことがどんどん出て来る。
呂の成り立ちを調べてみると、器の材料となる銅の塊を二つ並べたものと言う説や、二つの四角を脊椎の骨の連なる形と解釈し、背骨を表わすと言う説があった。
ちなみに神宮等の「宮」の字の呂っぽい部分は部屋が並んだ形を表し、似ているが成り立ちとしては別物と言われている。
しかし、脊椎の骨を「天地を結ぶ気が通る空間」として見る時、部屋もまた空間。
成り立ちの経緯は違ったとしても、求める意味は近い様に感じる。
呂ではなく呂だと特定の音や音域のことだったり曲のことだったりと、音楽に関する字としての解説が増える。
音も楽器や喉と言う空間を通して響く。
呂の字が口と口を合わせる形であることから江戸時代には、「呂」一文字や「呂の字」と言った使い方でキスを表現したと言う。
別の言い方である「口口」ならともかく、これには納得が行かない。
キッスであるなら、間の棒は何なのだと言う話。
呂の字が相当するのは、キスではなくポッキーゲームである。
そんな振り返れば割とどうでもいい様なことに、気づいた当初は「そこはちゃんとして頂きたい」となった。
釈然としないまま、調査に必要だった雅楽を片っ端から聴きながら
「まさか、江戸時代にもあったのか。ポッキーゲーム的な何かが」
と、ハッとなった。
どんな時代にも、そんな「あわやキス」みたいな可能性を生む戯れを思いつくお調子者はそこそこ居るはずだ。
「どーにかして、チュッと出来ねぇかな~。ん?」
そんな戯れが流行ってから“キスの下り”となるならば納得出来ると、本当に割とどうでもいい仮説を立て、一応の保留とした。
大分逸れたので、まず話を音に戻す。
一オクターブ間に約半音間隔で十二の音が配される「十二律」と言う括りで音を定めた時、呂は陰(偶数律)に属する六音を意味し、陽(奇数律)に属するもう半分の六音は律となる。
セットで呂律とか律呂とか呼ばれる。
虚空を内包する空間。
それを字の形で示す呂の方が、やはり陰を担当するのだと納得した。
声と言う、音に関することであるのに読みが又、呂になってややこしいが「呂律が回らない」の呂と律でもある。
酔って呂律が回らないのも、「陰陽の運びがままならない」状態なのだ。
脊椎の骨一つ一つを天地を結ぶ空間として、
中を弥栄の気である風が通る。
その姿を呂の字に感じた時、「そう、それだ!」と嬉しくなった。
始めに書いた「速度が自在かつ力の増す感じ」は、まさにこの「中心に気の通った状態」から起きている。
走りながら、減速しながら、歩きながら、加速しながら、
ずっとお風呂中なのだ。
成る程、疲労が溜まることなく、いい汗かいた爽やかさがある。
そうして愉快に過ごした後の入浴も又、素晴らしく楽しいものである。
惜しみなく、さっぱり。
(2020/11/26)