《願わくは?》
本日はクリスマスイブ。
今年のクリスマスは大っぴらにお祭り騒ぎをしづらい雰囲気が世界を覆っていることもあり、静かで真摯な祈りが各国でされるだろう。
真摯なと書いてみたが、「真を撃つ」が「的を射る」と似た意味ならこの祈りはそのどちらでもない。
何故なら内容が「願わくは」で飾られた、
「助けてぇ〜」
の域を出ていないからだ。
これは当たり前に的外れであり、真には当たらない。
クリスマスは“下々から天上へするお願い聞き届けキャンペーン期間”ではないし、
神威を讃えて“どれだけ健気で救われるに相応しい人物かをアピールキャンペーン期間”でもないのだ。
意地悪でも皮肉でもなく、クリスマスとは単純に
暗中に光を発見する、
歓びの祝祭である。
これは初めに虚空から無数の光が放たれた瞬間の、歓びの感覚記憶を蘇らせるもの。
そして、今の今まさに虚空より生み成され拡大し続ける物理次元の歓びを実感するものでもある。
だが不覚社会では単純明快な元の意味より、思い入れで飾ったものの方が重視される。
光を発見する歓びの祝祭そのままだとシンプル過ぎるからか、
「混迷の世に、救い主を発見する」
物語が採用された。
この中にも重要なメッセージは含まれているが、飾りに覆われて埋もれてしまった。
だからこの物語を形だけ知るに留まる人々は、自らの内側に無限の虚空を感じるのではなく外側に選ばれし解決者を見出そうとする。
そのノリをすっかり気に入って、これからやって来ると言われている審判と言うイベントでは救われるポジションに収まろうと、思いつく限りワイワイ色んなことをやって来たし、やればやる程ズレても来た。
大黒感のあるサンタ。
これがクリスマスと人類の青春記である。
出たては古代原始宗教のお祭的要素を多分に取り込み、我がものとして血肉に変えて行ったクリスマス。
この雑食の逞しさで、行事として広まり始めた辺りの上り調子な時代は、結構ヤンチャでもあった。
ヤドリギの下のチュッチュッチュは有名なお約束の一つ。
そこから百年千年かけて次第に裾野を広げ、同時に勢いを鈍らせた。
今日ではすっかり「何となくの義務感や「やっぱりこの味!」的安心感でこなす行事」とか、宗教的な意味を全く重視しない人達にとっては「キラキラしてカワイイ要素の多いイベント」に落ち着いている。
これから変容の時代が進むにつれて、クリスマス本来のシンプルな歓びへの理解も深まる。
入れ違いに古い飾りがばらける解体時期に入っているので、分かっておられる皆様はクリスマスを祈りの名目で放つ「願わくは」で歪めずに、只、有りて在ることの歓びと共にお過ごしになられて頂きたい。
再び盛り下げる様なことを申し上げるかも知れないがサンタ、と言うかサンタ役の人間が防疫上の理由で来訪を止めたりもするし、
目に見えぬ神徳や功徳を売りにして来たはずの神社や寺で、目に見えぬ疫病を防ぐ為の接触や接近その他諸々を禁ずる注意書きはちょいちょい見るし、
あっちこっちのミサも中止となっている。
ドラマが必要だった時代が終わり、神も仏もサンタクロースも、只今洗練の波に洗われている。
新時代の産湯につかっている訳で、これで波間に消えて居なくなるならそれもそれ。
「動画配信するからお家で参加してね!」と言うミサもあったので、「空いてる?」みたいな感じでちょっと覗いてみることにする。
そして祈っている人々を観させて頂く。
神の奇跡はこう言う時にこそ「ジャーン!」と明らかになって欲しいだろうし、その分皆さん力入れて祈るんだろうが、祈ってからの変化がどうなったのかは「ちゃんと見る」のだろうか。
見ないなら、それは祈ることによって満足感を得る為の祈り、「祈りの為の祈り」である。
願いなく、只湧き上がり満ちる歓び。
(2020/12/24)