《題を放つ》
「自由になりたい!」と欲する時、自由の意味を真に理解しているなら、多かれ少なかれそこに恐怖も生ずる。
何故なら自由は「自らに由がある」ので、
起きた結果について他のせいにすることが出来ない。
誰にも責任転嫁出来ずに、未踏の地を行くことは不覚者にとって恐怖となる。
嫌なことは他に任せて、楽で好ましいことだけしていたら、いつの間にか望んだ結果が手に入る。
これは、自由ではなく好き放題。
「自由になりたい!」と嘆く人の多くが、実は「好き放題したい!」だけなのだ。
「好きに生きて行きたい」と、もっともらしく訴える者も居る。
だが好き放題は、これが自分と信じた一個の端末だけが尊重され、それ以外の者達の自由意志は顧みられない。
「邪魔しないならみんなも望みを叶えていいけど、あたし第一でよろしく」
こんな調子で、偏見だらけな一個人の好き嫌いに従って世界が動いて行くことって、必要だろうか?
当たり前に全体一つの運びではないし、勿論弥栄でもない。
だから望みは叶わない。
不覚全盛期でも、権力と言う燃料がなければ好き放題は実現しなかった。
変容の時代には何の力を集めようと、好き放題狙いの動きは大した形を成さずに崩れて行く運命にある。
有を裏で支える無のエネルギーが、エゴでの利用にはもう供給されないからだ。
こんな時期に未だ好き放題を求め、それに自由と言うもっともらしい覆いをかけて正当化しようと試みても上手く行く訳がない。
気力体力の残る限り駄々をこね、やがては疲れてべそをかくのみとなる。
駄々もべそも、自由を皿に乗せて運んで来たりはしない。
「どうぞご自由に」
そんな新世界への一歩を踏み出せない者は、保証付き好き放題を求めている。
幸せへのコース取りを周囲や空間がしてくれて、
楽しさを演出してくれて、
損するとか失敗するとかの“誤った”方向に進まない様に調整してくれて、
ゴール到達も保証してくれる。
そんな道での好き放題。
中々の図々しさであり、更に「幸せ」とは何か、「ゴール」とは何かが明確に決まっている訳でもない。
強欲と不明瞭。
それは苦しいはずである。
今一つ進みが実感出来ない者、もしくは進むことに抵抗を感じる者は「自らに由がある」と認める覚悟はあったのか。
求めていたものが自由だったのか、それとも好き放題だったのか。
内観し、確認する必要がある。
そして、今ここから自由を意志するのか、それとも好き放題を求めるのか。
これも、確認する必要がある。
好き嫌いの基準を抱えたままやりたい放題を求めて、人型生命体に本来必要である「目を覚まし全体一つに還る」と言う主題を放り出すなら、矛盾と混乱に終始する。
放つなら、本題をエゴの縛りから解き放つことだ。
本に還って、
命が湧く。
個の好きが優遇され感情が慰撫された位で起こる解放感は、マッチ一本擦って消えるまでの暖かさ程度で長続きしない。
長続きどころか永続きな、覚による解放とは似ても似つかないものである。
自由に解かれる命題。
(2021/2/25)