《雨にも負けず?》
「雨降って地固まると申しますが…」
結婚式や披露宴が雨天だった折にこんな言い方で、湿気た場の雰囲気を盛り上げようとすることがある。
そう言えば「生憎の雨」なんて表現もあるし基本、人が晴れ晴れとした感じで何かやりたい時の「雨」は低評価。
植物を育てる等使うのになくちゃ困る時や、乾き過ぎで困る時は「恵みの雨」や「御湿り」となる。
雨は雨。降る方は好まれようが嫌われようが、気にせず降っている。
本日は二十四節気の「雨水」の初め。
「小雪」「大雪」の様に、前の節気では空から降るものは雪。
それが気温の上昇で凍った状態が溶け出し、雨に変わるので雨水。
春一番が吹く時期にもあたり、草木が芽生える頃として農作業の準備開始の目安でもある。
雨水にお雛様を飾ると良縁に恵まれると言われている。
雪解けのタイミングと、男女和合の演習みたいなミニ結婚式風景である雛人形を飾る時期が通じているのが面白い。
四季や節気で分けられ巡るサイクルは、それしか知らない面子からは“永遠なる自然の理”みたいな扱いをされているが、実際そうでもない。
全球凍結時代には、二十四節気も何もあったもんじゃない。
人類は地球が四季の巡る状態に仕上がった後しか知らない、割とポッと出のニューフェイスなのだ。
だからだろうか、自然を相手に戦ったり母なる自然として甘えたりと幼いことばかりしている。
稚気に任せた奔放な行動による、様々な体験が必要な時代も確かにあった。
だが既にそれは去り、人類もとっくに「いい年」になっている。
この「いい」は良い悪いの良い、ではなく「頃合いの」と言う意味である。
ニューフェイスであっても「いい年」なのは、モノコトの起こりや全体の変化はどんどん加速する為。
進化変容の時代を迎えて、起こりも変化も更に速度を上げている。
新生し続ける速度を受け入れ難い、頑なな者達にとっては暴雨暴風が増す様に感じられ、相当に辛い場所となる。
雨風は敵ではない。
そんなこと知っているが、戦いたい時だけ敵役をして欲しい。
これは未成熟な“コドモ”の言い分である。
“コドモ”とは勿論、エゴ満載で好き放題して幼いままの人型生命体のことであり、世間で子供と呼ばれている「ちいさな人たち」のことではない。
内側が既に大人びているちいさな人たちが、図体のデカい“コドモ”の大暴れに呆れ返っていることだって沢山あるのだ。
“コドモ”は周囲が“コドモ”の為にあると思っている。
反論して来ない相手なら尚更で、自然に対してもそうした態度で手出しをしようとする。
英雄は、敵が居ないと英雄になれない。
ヒーローになった気分で、付き合ってくれそうな大人に「戦いごっこしようぜ!」と幼い子がねだる様に、人類は自然に対し甘えて、好きな時に叩いてやっつけて来た。
クリスマス前やお小遣い欲しい時だけ良い子にするみたいに、豊年祭や雨乞いで自然にひれ伏したりもして来た。
自然は人類の保護者ではない。
人類も当たり前に自然の一部だからである。
自らが自らを追っかけ回したり、逃げ回ったりと、トンチキな時間を過ごす癖が抜けていないが、それでは何処にも着かずに目が回るばかり。
雨も風も敵ではない、そんなこと知っている。
そんなこと知っているの「そんなこと」を、当たり前だよと知った風に流すのを止めて、真正面からちゃんと見る時期に来ている。
逸らさずに見つめ、観察する時、この星の運びは何と見事かと気づく。
火の球だった頃、氷の球だった頃。
様々な生命の活動に満ちる場となってから今の今まで。
不覚の思惑で台無しに出来る様な、ちゃちな代物ではないのだ。
「○○ニモ負ケズ」と挑んでもまるで勝負になっていない。
そもそも勝ち負けの基準自体、何処にもない。
立派であることで優位に立ちたい人々は「醜い争いはおやめなさい」と勝ち負けの無益を説くことで勝とうとすると言う、やっぱりトンチキな動きに陥ることがある。
だが、醜いからNGなのではなく、本当に勝ちも負けも自然にはないのだ。
勝ち負けのない分、空っぽの風通しの良さと、体験の歓びがある。
幼い意識達のワーキャー騒ぐ声も乗せて、全体は活き活きと弥栄の道を進んでいる。
自然は人を、負かさない。
(2021/2/18)