《重き荷を》
“人の一生は重き荷を負うて遠き道をゆくがごとし。”
こんな感じで人類は、辛抱我慢を長年美徳として来た。
そしてその反動で、勝手気儘を暴発させても来た。
あの人は辛抱我慢多め、この人は勝手気儘多めと言った具合に各人にばらけさせて分担して来たので、まさかこの世が全体一つとなど思いもよらずに、と言うかすっかり忘れて、人々はせっせと不覚体験を繰り返して来た。
その不覚体験ツアーの様な時代も終わりを迎え新体験は既に出尽くし、辛抱我慢と勝手気儘の泥仕合も泥がどんどん濃くなり身動きが取れなくなって来ている。
このまま抱き合い固まって、一緒に壁画にでもなるつもりだろうか。
首を傾げたくなるがそんなことをしていても仕方がない。
新しい年がやって来るのに向けて必要なことは、別にある。
冒頭の言葉には続きがあり、全体はこうだと言われている。
“人の一生は重き荷を負うて遠き道をゆくがごとし。
いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし。
心に望みおこらば、困窮したるときをおもひ出すべし。
堪忍は無事長久の基。怒りは敵とおもへ。
勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば、害その身に到る。
おのれを責めて、人を責むるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり”
長年、家康作と広まっていたが光圀作であるそうだ。
人類史の中では相当分かっていた端末である気がしていたが、黄門さんも辛抱我慢推奨派だったのだろうかと、しみじみ眺めた。
とは言え、あの頃は辛抱我慢全盛期だったろうから、これはこれでやり切ってくれた足跡として有難い。
只、今の今変容の時代を歩む端末の足にはまるで合わない。
辛抱我慢が要求される様な責任や義務、間柄、美学等に限らず、エゴそのものが重き荷である。
あまりに背後にぴったりフィットしているので、背の肉だと大多数が勘違いしている。
荷を下ろすには留め具になっている、人生で得て来たお気に入りの思い出や価値観、勲章等が散りばめられたベルトを外す必要がある。
「我」と言うタイトルを失いたくない。
それが嫌だから皆、苦しくてもくたびれても、背中が曲がっても荷を負い続けている。
自由意志でしていることなので一切止めはしないが、お勧めもしない。
この時代に、そのスタイルは倍々ゲームで難行化して行く。
勿論、難が好きならそれで構わない。
2021は皆それぞれに「荷下ろし?それとも?」の岐路に立つ年となる。
難行化した重荷ごと周囲に寄りかかって、
「ねぇちょっと一緒に持ってよ」
と無茶を言う者も出て来るので、覚悟を磨き機会を活かし続けて来たグッドセンスな皆様は、要求が突然だったり派手だったりするとつい反応する「同情癖」を卒業して頂くことをお願いする。
同情は不要、必要なのは愛だけである。
先程の光圀フレーズをヒントに、この時代に合う内容を受け取って書いてみたものを記事の締めくくりにお載せしておく。
内容を噛みしめ飲み込んで、荷下ろしの年に備えて頂ければ、実り多き2021への種蒔きとなる。
“人の一生は重き荷を負うていては遠き道をゆくことは出来ない。
ときも遅きもなく、流れに乗れば必要なことが必要な時に成される。
自由とは自らに由があること。
全て虚空である自らの由。
これが常であるので足らざることは初めからなし。
心に望みおこらば、個の望みか全の望みかに意識を向けよ。
困窮は体験に対する感想の一つであり、基盤ではない。
失うものなどないと知る必要があるなら、本来無一物であったと気づくこと。
一部を無事長久に保つ為に堪えて忍び、怒りを敵として排すれば、それら忍や怒は内側を蝕む。
勝ちも負けも体験の妙であり、拘らなければ弥栄となる。
自他なく、よって責めもなし。
及ばざるか過ぎたるか、そのどちらがまさるかなど一体誰に決められようか。
只体験し、味わい、昇華し、愛することである。”
荷を解き、全へ溶く。
(2020/12/28)