《郷愁の行方》
一件につき大体数分で終わる軽い運びも手伝って、現代音楽を観察することがある。
以前も関連することを記事に書かせて頂いたが、「死にたさ」「消えたさ」「生き辛さ」の表明や仄めかしが、ここ十年位の間に随分増えて来た。
その位の刺激がないと猫も杓子も歌って踊るこのご時世では埋もれてしまう。
そんな危機感からとられた戦術と言う面もあるだろうが、それだけではない。
物理次元が進化変容と言う局面を迎えて、どんどん準備を進めている。
羽化の為に蛹に裂け目が生まれる様に、これまでの秩序が綻んで千切れて行っているのだ。
それと同時に、新世界の息吹が裂けた隙間から流れ込む。
そして全母たる虚空からの「おかえり」と言う天意の祝福は、内からも外からも静かに響いている。
だがエゴで塞がれた意識には、それをそれとして実感することが出来ない。
どこからかも分からない遠くに、あるかなしかの薄さで「おかえり」の気配がある。
だから、ちょっと強引な方法で「ただいま」を起こしたくなるのだ。
やたらの生き死にアピールはその表れの一つである。
音楽と言うある種、天啓の混ざった情報をも汲み取って仕上げる性質のものを受け取れる者は、この郷愁の念が殊更強くなっても何の不思議もない。
懐かしい、ずっと求めていた、安心を超えた、何の戦いも苦悩葛藤も保証も必要としない、その何かを。
恋しく感じると共に、寂しさや苦しさ、焦燥がつのる。
鋭いセンサーは、強めのホームシックを起こす。
ドアなんか見つからなくていいから、もう全部やめて帰りたい。
嘆きに満ちた音を奏でる全ての表現がそうなのではなく、ホームシック流行りに乗っかって、首尾よく集めた注目を美味しく頂くだけのものもある。火事場泥棒である。
「死にたさ」「消えたさ」「生き辛さ」を言うことは、自棄の衝動であると同時に、棄てることを振りかざして行う要求でもある。
「自分を棄てて帰っちゃうよ。そうなって欲しくないなら分かるとこまで、もっと近くまで迎えに来てよ!」と訴える。
「分かるでしょ、おかあさん!」
みたいな。
当のおかあさんが。
母であり子、子であり母。
全母であり分神、分神であり全母。
これが分からなければ、「我は子であるのみ」と言う意識のままで、駄々をこねることが止まない。
未だ収まらないこの傾向を観察して感じるのは、物理次元での人型生命体の進化は宮司を名乗る“これ”の進化よりゆっくりであると言うこと。
遅々として進まない風に見えても、根気よく観察をして行く必要のあることを再確認している。
勿論、その中からある時突然鮮やかな飛翔が起こることも理解して。
先日、その一つであるかも知れない作品を、音楽ではなく文学であったが発見し、口笛でも吹きたい気分で書店へ急行した。
待ったり望んだりせず、起きることを味わうのみとなっている日々ではあるが、来たらそりゃあ歓ぶ。
実際読んでみると初めは肩すかし。そこからの「フーム」が続き、やがて情報を整理し腑に落とした。
これはいよいよ見られるかと、「ヤーッホウ!」となった段階の、
前の、前の、前の、その前位について書かれたものだと。
それでも一歩は一歩だ。
ここから多くの誤解が発生しても。
それら誤解が、各々の信奉者を抱えて捕食し、喰う者喰われる者抱き合わせで、彼らに相応しい巣穴に戻って消えても。
こうした“空振り”は既に幾度も経験しており、記事に書いたこともある。
だが、幾度「今ここじゃなくて、そこ?」が起きようと観察は続ける。
幾つもの選択が、それに見合った結果と共に退場した後に、真打ちが現れる。
こちらはそれに相応しい、振られた仕事をして行くだけだ。
虚空への帰還の途中に掘られた横穴は一々底まで覗き込んではいられない。
それも必要な時が来たら、埋まるからである。
全ては虚空の風が運んで、埋葬者も墓守もない。
平らかになった後に、心底からの感謝と共に拍手は送ることにする。
日の元を行く。
郷愁の行方は、追わない。
(2021/2/15)