《還りの道》
当宮記事について以外で色々な調べ物が雪だるま式に膨れ上がり、それをちぎっては投げちぎっては投げしているこの所の宮司。
「うわ~、だってお爺さんだもんそりゃみんな気づかないよね。まっさかここで「母」が出るとは」
とか、
「こんなに…こんなに沢山のキキララを見たのは初めてだ…」
とか、
人が聞いたら多少正気を疑って来そうなうわ言も出たりしながら、大変充実した日々を味わっている。
只今は目をつぶってもあの双子の残像が浮かんで来るが、創刊から45年分のいちご新聞にも目を通すので、猫や兎風な存在達のイメージが溢れてそのうち薄まるだろう。
猫でも兎でもないらしい。じゃあ何だ?
歓びと共に毎瞬、虚空の全母から送り出されている物理次元。
そこで人型生命体は、点滅を繰り返しながらこれまでありとあらゆる様々な体験を積んで来た。
「送り出されたことをすっかり忘れて」
それ故に
「送り元があることも分からない状態で」
それ故に
「広い世界に小さな自分が単体でポツンといる感覚で」
それ故に
「小さな者同士繋がり合って力を増そうとして」
「人でも物でも不安材料は排除し減らそうとして」
それ故に
「好いたり、嫌ったり、画策したり、騙したり、執着したり、混乱したり、怯えたり、疑ったり、興奮したり、信じたり」
等と言った奇妙奇天烈な動きを「すっかりその気になって」沢山することが出来た。
とても素晴らしく、有難い体験の時代だった。
その素晴らしさ有難さを本当に噛みしめて味わえるのは、覚が平凡化してからとなる。
一足お先に味わわせて貰っているが、覚者が増えれば増える程、味わい深さも増し、又新たな味も出て来るだろう。
そんな歓びを感じつつ、愉快に暮らしながら世間を眺めている。
不覚の体験がすっかり出揃い、もう新しいものが生まれない飽和状態となっても、覚の感覚を忘れた状態が当たり前になった人々には、未だそれが受け入れられない様子。
だからまだ、『不覚で見つけた良いもの100選』みたいな、感動で涙を絞るとか、信じた道をひた走ると言った“お気に入り”がこの世界を更新することを願っている。
願掛けするのも勿論自由だが、それを続けても虚空には還らない。
覚めたくない人々が「せーの!うんとこしょ!」とその希望の光神輿を担いでも、不覚好みに世界が更新されることはないし、担ぎ手も次第に減って行っている。
一方で、覚に期待を込める人々がアトラクション感覚で学びの場や集会に参加しても、それが「目覚めた特別な自分」「そんな自分の特別な人生」の実現や「今抱えている不満が全部解消すると言うご褒美」を期待してのものなら、当たり前に覚めない。
「覚めたい」のと、「覚めることを願っていたい」のとは全く違う。
覚めることを願っていたい人々は、まさに願い続けることが出来ているのだからそれはそれで万々歳ではないだろうか。
何も困らないし、困り様がないのだ。
覚めるに必要なのは、内に道のあることを認め、外なる実行を通して内にも歩みを進めること。
そこには何の乗り物も迎えに来ない。まして乗り物風の遊具などない。
母神祭も、しろ印のアトラクションな訳ではない。
還りの道が既に内側に開かれていることを解き明かし、伝え、祝う場なのだ。
乗り逃しちゃいかんと言ったものではなく、そもそも乗り物じゃない。
伸るか反るかの「のる」を「乗る」に変えようとするなら力尽きるまで、期待に応えてくれる乗り物探しの旅を続けることになるだろう。
それも自由意志が通ってのことなので、やはり何も困らないし、困り様がない。
虚空へ至る還りの道は、
新生する孵りの道。
(2020/11/19)