《過を渡る》
「ふうん、確かになぁ」
陽射しの下で洗濯物を干していて、ちょっとしたことの説明がするすると上から流れ降りて来たので、頷きながら聴き入った。
この所、世の中では様々な面での不安が煽られることも手伝って、順当に生き辛さが増している。
これまでのノリで行けはしないと言う、全体一つの流れからの明確な“返し”である。
だが、それを人はまだ人の手で「何とかしよう」としている。
「何とか」と「しよう」の間には、「改善」が入る。
善かれを以って改める。
つまり只今を祝えていない。
生き辛さの緩和を、文明の利器やシステムの開発でどうにかしようと試みている人類。
どんな器を作っても、使う側の変化がなければ却って生き辛さを助長することに向かう。
観察者としての質が追い付いていないなら、どれ程高度な文明の利器だろうが、快楽を与えてエゴを肥え太らせる自動給餌器みたいなものでしかなくなるのだ。
使うことと、使いこなすことは違うし、こなした上で活かすことは更に質が違う。
文明の利器に使われているなら、そのいずれにも至らない。
上から説明されたのは、利己も利他も利の追求であり、何の器を使おうがそれを我でしようとする限り、生きる力はガリガリ削れて行くと言うこと。
「我利我利くんだ」と返して笑った。
笑っている場合かと言えば、笑うほかないのでこれでいいのだ。良いも悪いもないが。
削れに削れて「もうダメだ!」となった時に、我への執着を手放すことが出来ればそこから変わり出す人も居るだろうが、伸るか反るかはそれぞれの自由。
これから煮詰まりが増して行くのでその辺りも丁寧に観て行くことと伝えられ、「へーい」となった。
過渡期とは、古いものが新しいものに移り変わる時期。
移り変わる間、変化によって未だ確立されないことで混乱や動揺をしている状態を表す。
「新しくなる」ことは割と人類歓迎しがちなはずなのに、過渡期と言うのはポジティブな意味では使われない。
変革期とすれば明るい要素が含まれるが、これは「新しくする」意味合いが大きいからだろう。
自分から変えて行くんだ、新しくするんだ。
こうした意気込みを人は良いことだと見なすが、角度を変えれば「主導権を手に出来ている変化じゃなきゃ不安」と言うこと。
お部屋の模様替えみたいに分かる範囲で新しくするのは結構でも、何だか分からない範囲で新しさの波がやって来るのは歓迎出来ない。
それは我による選り好みである。
見えざる変化の波に震える時こそ、「自他はない」を知る機会。
目覚め願望を持つ不覚者の多くが、こそっとはみ出して陣地を拡大する目的でしか使ったことのない「自他はない」。
これを、誰の得にも傾かない只の真理として受け容れること。
そうして向き合うと中立になり、訪れる変化を活かす道が見えて来る。
危機をやり過ごすのではなく、今この瞬間を渡り続ける本道を行く。
変化の波風は、本道には常に追い風である。
傾く船で、渡れる過もなし。
(2021/5/13)