《運ぶを盛る?》
本日は冬至。
知らないおせち作りの支度が面白く、ついでと言っちゃ何だが冬至に行うあれやこれやもまとめて色々やってみようと調べた。
「南瓜、柚子湯。小豆でお粥作るってのもあるわ」
と、あれこれ見ていくうちに不思議な縁起担ぎに行き当たった。
「冬至の日に「ん」がつく食べ物を食べると、運を呼びこむことが出来る」
これには「運盛り」と言う名前までついているそうだ。
饂飩 、寒天 、金柑 、銀杏 、南瓜 、人参 、蓮根
やたらガードが固そうな器。 箸をつけづらい。
南瓜は別名が「なんきん」であるからだが、何で饂飩まで入っているかと言うと、
饂飩
昔はこう呼ばれていたらしい。飩を鈍とかけて運が鈍くなると言う解釈には、ならなかった模様。
誰が言ったか知らないが、これら冬至の七種と呼ばれる食品は「ん」が2個ついているものばかり。
「ん」が1個のものより更に運を呼びこむとされているらしい。「ポイント制?」と驚いた。
「とにかく「ん」だ!「ん」を盛るんだ!」
となり、「う」がどの辺で積荷から転がり落ちたのかは不明。
「いろはにほへと」の並びが「ん」で終わることから、「ん」には一陽来復の願いが込められると言う話もある。
「ん」は運びの行き止まり。
完成した運であり、それと同時に運の尽きでもあると言うことだろうか。
それであれば、夜の最も長い冬至に「ん」を激盛りして、その分でっかい太陽呼び込もうぜとする人間らしい発想だと、何となく分かる気もする。
不覚の人々は幸運が大好きだ。運がないことを不運と言う。
運はものではない。
運びとは流れであり、それ自体を集めて積むことは出来ないのだ。
その辺り、不覚社会は運と徳をごっちゃにしている。
善い行いをし続けることを「徳を積む」とか言ったりするが、徳の様に運も積めることにしてしまう。
目が覚めたての時は、そうしたごた混ぜに只々「杜撰 !」と驚くだけだったが、覚めて暫く経つとそうした不覚ならではの矛盾を踏み倒してGOする運求めを、“雑 かわいい”とほんのり感じたりする様に変化した。
雑かわいいし愚かわいいが、もう大人になる必要がある。とっくにその時期だからだ。
不覚はかわいいを言われると頭を撫でられようとしたり、かわいいを言われ続ける為にそのままで居ようとするが、頭を撫でたりもしないし、どうぞそのままでとも言わない。
覚める意志があるなら、途中までそうした運盛り遊びに夢中で
「当たり前じゃん」
「だってそれが人間でしょ」
となっていたとしても、
本当にこれをする為、
ここに来たのだろうか
の問いが、内から湧く。
問わずにいられない。
こちらはその問いのある者に用がある。
かわいいと用があるとはイコールで結ばれない。
「運」はものとして盛ることは出来ないが、弥栄の運びを盛んにすることは出来る。
それは個が膨らむ為ではなく、
盛んにした運びを惜しみなく全体の更なる弥栄に捧げて送る
その為にあるのだ。
運びを盛んにすることに、何の我欲も必要ない。
盛り上げに盛り上げた運びを、爽やかに送り出せるだろうか。
とどまるを知らぬがまことの神はこび。
(2020/12/21)