《進化と騒動》
ひょんなことの溢れる生活をしていると、その場で意味が分からなくとも、取りあえず乗ってみて言ったりやったりすることがある。
先日もふと興味が湧き、ドラッグストアに足が向いた。
お客はまばらで、店員の方々も棚に品を並べたり働いてはいても、それ程大忙しではない様子。
近寄って尋ねてみた。
「あの~、ないらしいことは知ってるんですが、
置くとしたらマスクはどの辺になります?」
店員の女性は一瞬で、すまなそうな顔になり、
「申し訳ありません、あるとしたらそこに」
と、空になって「ないよ」的な説明が書いてある張り紙のついた棚の場所を示してくれた。
「おお、ここですか。
いや、差し当たってすぐに必要な訳じゃないので、無くて平気なんです。
只、ニュースでやってるみたいな、空になってる棚がホントにあるのか見に来たの」
と、正直に言った。
こうしてその時の会話を振り返ると、100パー野次馬発言だが、こちらは全く意識せず、向こうもお気を悪くされた様子はなかった。
お気を悪くとか良くとかその前に、謝罪姿勢に集中するのに手一杯と言った感じ。
丁度宮司がしていたふかふかした愉快なさわり心地のマスクの話になって、最近はその偽物が作られて出回っていることや、今日は開店当初少しマスクが入荷したがすぐ無くなったこと等、色々教えて貰った。
その間も殆ど意識されていない様子で「すみません」を何度も仰っておられた。
会話全体見ると、気軽な野次馬の到来にも丁寧に対応して頂けた訳で、どっちかと言えばこちら側が「すみません」なんじゃないだろうか。
礼を言って店を出た帰り道、どうも奇妙に噛み合わなかった会話に首を捻っていて、気がついた。
「こりゃ相当、謝ってるな!」
この度の騒動から日常的に、
「マスク無いの?」
「申し訳ありません」
「マスクまだ無いの?」
「すみません」
「何軒も回って来たんだけど」
「申し訳ありません」
を繰り返していれば、それは
「特に無くて平気」
「すみません」
「?」
のやり取りも発生するのだ。勢い余って、と言うやつである。
入荷を何日待っていようが、朝から何軒回って来ようが、それは客側の事情で、店には責任がない。
まして、一店員が入荷状況を勝手に動かせる訳もなく、ますます関係ない。
なのに、がっかりした方は何となくその気持ちを言いたくなるし、言われた方は謝らざるを得ない感じになる。
自覚なくこなしていたらどんどん気が沈む大変なチャレンジ。
真面目である程、実際はない責任を感じて落ち込んだり、ストレスが溜まったりする。
ストレスそのものが悪い訳ではなく、この機を活かして生きるとは何か、本当に大切な人型生命体としての宿題とは何かに、意識を向けるのであればそれも弥栄である。
と言うかその必要があって、世界を覆う様な不安の大波が起きているのだが、波の穏やかな時期に虚空から送られたサインを無視して来た不覚社会は、案の定てんやわんや。
そんな悲鳴や怒号のいちいちには興味がないのであまり意識を向けていない。
だって、言われてたじゃん。
虚空から。
そうしたことは放っといて、現在関心が湧いているのは、マスク騒動とオイルショックと米騒動における類似と相違である。
オイルショックについてはリアルに体験した世代に「どんなんでしたかね?」と聞くことが出来たが、リアル米騒動世代については平成に起きたミニ騒動は対象から外しているので、ちょっと見かけない。
「直近で大正時代だもんね、100年か~」
と言いながら、だからこそ今の今味わえるリアルに感謝しようとなった。
もう一軒ドラッグストアに行き、先に書いたのと同じ質問をして「ガラガラの棚、見に来たの」と言った時、そこの男性定員は
「見た時ね、無いとガッカリするから、他の見て欲しい商品を置いてます。
だからガラガラの棚はないです」
と、教えて下さった。
あちらも特に気を悪くした風でもなく、何だか仏像みたいな穏やかさであられた。
腹をくくって仕事してる存在に適度なストレスがかかると、自覚ないままでも進化はするのかも知れない。
それぞれが今の今向き合うもの、そして活かされる機会に対し、一端末としてその全てに立ち会うことは出来ないが、心底から祝福を贈ることにする。
いい加減、腹決める時期。
(2020/2/25)