《逡巡の教示》
進化変容に向けて着実に歩みを進める人々と、逡巡して似た様な所をぐるぐる回っている人々の違いは何処にあるのか。
皆が皆前者であるならそんな差も知らないままとなり、差の元になっているものについても分かり様がない。
後者にあたる人々から様々なことを教わった。
これも学びであり、感謝している。
感謝と共に彼らの存在を通して、教え示されたことを皆様にもお知らせしてみる。
逡巡する人々は、
伝えた内容を自分好みに‟編集”する。
聞きたい部分しか聞かない。
又は都合良く捻じ曲げて解釈し、我田引水に使う。
自分を飾る時だけ饒舌になり、興味が湧かないか都合の悪いものにはだんまりを決め込む。
風雨を避ける様に、しばらく無視すれば課題は何処かに去って行くと思っている。
優しくされていないと、辛く感じる。
優しくされると、甘えたくなる。
甘えることが出来ると、歩みを止めたくなる。
目さえ覚めれば、不覚の今欲しいものは全て手に入ると思っている。
苦しんでいれば、どこからか助けが来るような気がしている。
だが、苦しむのは嫌いだ。
覚者や進んでいる人と自らの、共通するポイントを言いたがる。
自分に可能性があることを保証して欲しがる。
人より上だと気分がいい。
粗や綻びを探したがる。
目覚めたい意志を“人質”に、目覚めに関係ないことの解決を手伝わせようとする。
理論や知見を沢山並べれば、実行はなくても格好がつくと思っている。
行動しかけても、すぐ息切れする。
何なら、エゴからの行動でも息切れする。
何もかも投げ出したくなるが自力でなく、出来れば不可抗力でと言うことにしたい。
愛や感謝が良く分からない。
結局、全体などどうでもいい。
ざっと挙げただけでもこの通り。
彼らが駄目と言う訳ではない。
駄目も何もなく只、そうであるだけなのだ。
感謝と共に、逡巡する人々から学べたギフトをこうして並べてみたのは、ひたすら実行し進化して行く人々に申し上げたいことがあるからだ。
上記の様な傾向を持ち逡巡し続ける人々に、根気よく長々と関わっても、結局彼らが変わらないことも多い。
彼らも全体の一部だとして、観察することは学びになる。
だが、必要以上に入れ込まないことだ。
特に、情で絆されないこと。
目覚めを意志する様になる前に、長年善人プログラムを採用していた方は殊更、肝に銘じて頂きたい。
逡巡する人々は縋りたい相手を見つけると、不覚の良識も利用する。
いのちエネルギーのてんでおかしな使い道であるが、変容の流れに不覚が逆らい混乱してごった返す中では、こうした動きも起きるのだ。
ありがたいことに逡巡が教示するものを中立に観察し続けて、一行目に書いた「違いは何処にあるのか」が、ようやく分かって来た。
不覚的には相当突飛な内容になるが、変容の時代にはとても重要だと感じるので木曜記事にてお知らせ申し上げることにする。
活かさなければ、学びではない。
(2019/11/18)