《超速生活》
これで良いのか悪いのか。
正しいのか間違っているのか。
効果や利益があるのかないのか。
人が「思い」そして「考える」時、こうした様々な揺らぎが起こる。
針の穴に糸を通す程の集中を要する結論の導き出しに向かって、緊張で手が震えてしまう感じである。
この穴でいいのか。
持っている糸は切れない丈夫なものか。
そもそも本当に、これは針なのか。
パンとか棒とか虫じゃないのか。
疑い始めると、揺れが増大。
人によっては中々縫うまでに至らず、くたびれるのみとなったりする。
糸(意図)通しからの物作りが得意でひたすら腕を上げ、思考の積み重ねから実行に至らせるプロセスを好んで来た者もまた、そこから離れることが難しい。
「思考は手放さなくちゃ」と、思い考える。
どうやら思考を手放したらしい人達の進捗や真贋を、思い考えながら査定する。
長~いチェックリストを展開させても余裕でいられる、良く回るアタマは、思考していることに気づきを至らせない。
優秀なエンジンがドアを開けて、
運転手を車外へ出してくれる訳ではない。
覚めると、良し悪しや損得等の判断に意識が向かわなくなる。
起こることは、それぞれ全体の流れの一部であって、観察はしても操作はしない。
この状態を言葉に表すことは中々難しいが、
ぱっかり開いた意識で
来るものを受け取る。
位の、シンプルさ。
「考えるな感じろ」とか、「直感に従え」とは、良く言われて来たことで、真理ではある。
だが、個人的都合を挟んだままでの「感じ」なら、
「アタシにとってのイイ感じ」
に過ぎず、もっと直感的にと目指しても、「生き物としての野生の勘」程度なら、やはり生存と言う「個体としての都合」が含まれている。
個を背負った直感は、屈んだ状態で「直!」を念じている状態。
なので天地に合わせて真っ直ぐ、ではない。
個を超えて受け取る時、
来るものは速さを超えて届く。
速いとか、遅いとか、意識にのぼる間もなく、音なら「ポン」「ポン」「ポン」、光なら「パッ」「パッ」「パッ」と言う感じで必要なことがやって来る。
超速い、ではなく速さを超える、超速生活はとても面白い。
気づきの「受け取り」と、
実感の「味わい」。
それは誠に、至福そのものである。
速さを超える歓び。
(2020/1/20)