《責と適》
覚めてからこっち、不覚時代には全く気づかなかったことについて、「?」となることは日常茶飯事である。
先日も「重責を担う」と言う表現について、何故だとなった。
何で、責?
「責められるの?」「罪があるの?」「借りがあるの?」「それって何?」と、次々にはてなが飛び出る。
もしかしたら「責めを負う」と言った、罪に対しての罰っぽい感じではない、責の意味があるのかも知れない。
イヤッホウと責について調べ始めたら解説として出て来たのが、
「当然果たすべきつとめ。責任」や「1 罪や手落ちをとがめる。せめたてる。2 果たさなければ負い目となる事柄」
やっぱり何かお叱りモードである。
誰かに役目を任せて行動を促す時、「するのが当然だからね」として「出来なかったら叱るからね」とする。
これって、必要なのだろうか。
そして弥栄だろうか。
責の読み方がセキでなくセメな場合でも、「負い目」とか「拷問」とか、穏やかじゃなさそうな意味達が並ぶ。
「責める」と動詞に変えて更に調べてみたら、責で沢山見た、
「ああして。こうして。やんなきゃとっちめるぞ」
の脅しめいた意味達の後に、技芸を教えこむとか馬を調教するとか、一心不乱に念仏や祈祷などを唱えると言った、
「真剣にやってくれなきゃ困るのよ」
と、なりそうなもの達が出て来た。
その後にようやく、
努力してきわめる。
求めて追究する。
の意味を発見。
これは自身の行いについてのことで、相手に行動や成果を求める内容ではない。
後もう一つ、帽子や頭巾をきっちりとかぶると言う意味も、自らの行動で完結している。
これらも「努力」とか「きっちり」とか、引き締め感のあることには変わりない。
やはり責には、緊迫した気配が漂う。
ご承知の様に、
集中と緊迫って、
イコールではない。
重責に押し潰されそう、なんて言い表し方がある。
緊迫から起こるプレッシャーで押し潰される感じになることはあっても、集中で押し潰されそうになることってあるだろうか。
集中する時には、柔軟さが必要で、
柔軟である為には、適度な余裕が必要。
締め上げるのでもなく、
放り出すのでもなく、
柔らかく、軟らかく、
どの様にでも変われる状態にしておくこと。
それが出来ていると、時と場に適した振る舞いが自然と成されて行く。
責の字の、上半分は「朿」下半分は「貝」を表していると言われている。
トゲトゲした貝殻があるのじゃなく、この貝とは財貨のことで、チクチク刺す財貨とは借金の意味だそうだ。
だから「責を負う」には、負債の負が付くのかと納得した。
借金だから、求める方が「当然やんなさいよ」な態度だったのだ。
態度の意味は分かったが、そもそもの意味がやっぱり分からない。
「誰の何の借りなのさ?」
相手に対し役割に沿った行動を求める時、借金返済を迫る様に要求する意味が分からない。
役割を担う当人がそこに、借金に追われているかの様な緊迫感を持つ意味が分からない。
やれUFOだ陰謀論だの話が出るとトンデモ扱いして嘲笑する不覚者達は世の中に幾らも居るが、誰の何のか分からない借りを当然の様に言っているのだって、中々のトンデモじゃないだろうか。
UFO陰謀と共に「お疲れさん」と言うほかない。
今の今、物理次元に居る人類全てがじゃないにしても、分かってる人々はそろそろ責の概念と、そこに漂うトゲトゲしたノリを卒業する時期である。
任、つまり天から振られた役割に必要なのは、責でなく適。
流れに沿った任がある時、
そこに責めを負う立場にある者など居ない。
任に適した者が居るだけである。
任が適せば、力湧く。
(2021/5/10)