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「こうしたい」と思うことが、

思う通りにならず、

悶々とするのを繰り返す。

不覚社会を眺めていて、そうした状態にある人々を目の当たりにした時、こちらには幾つもの「?」が発生する。

 

 

発生した「?」を順に書いてみると、

何故、「こうしたい」と、思うのか。

何故「こうしたい」「こう」と言う、特定の結果予め定まっているのか。

そもそも何故、「思う」と言うことが起こるのか。

何故「私が・思っている」と感じているのか。

 

 

そして煩悶を「繰り返している」点に、何故着目しないのか。

大体こんな所である。

不覚状態では「分かる~。悶々としちゃうよね。辛いよね」となるのかも知れないことが、全体の繁栄にしか興味のない存在にとっては、こうした謎達で溢れ返る、意味の分からない状態となる。

「それはあなたの毎日が望んだ通りに上手く行っているからじゃないの?」

 

 

当宮にご参拝下さってこれまでの記事をお読みになられた皆様の中に、今更その様な感想を持たれる方もおられないだろうが、一応書いておくと当たり前に答えは「いいえ」となる。

いいえ。

不覚時代にあった、

個としての「こうなりたい」や、

「これこれこうしたい」の願いについては、

まるで叶っていない。

 

 

そして目が覚めた今の今、個としての願望別にない

宮司を名乗る”これ”の願望もないし、天の意に沿っていない願望は、全体一つの邪魔にしかならないと分かっているので、誰の願望も応援しない

御多分に漏れず、“これ”にも、不覚時代には「こうしたい」と思っていた大切なものがあった。

ひたすらそれが上手く運ぶ様に日々情熱を注ぎ、出来る努力はしていたし、途中まではそれなりに上手く行ってもいた。

 

 

ところが目覚めを意志して内省を始めた辺りで、その大切にしていたものへの、見えない領域からの応援がみるみる減り始めた。

まず、タイミングが合わない。

仕事が進まない。

集中が出来ない。

実入りも少ない。

そして、目が覚めてからはごく当たり前に「ああ、ずっと大切にしてきたけど、続けて来たものをすることは今の今、天に望まれていないんだな」と気がついた。

 

 

並行して始めた作文の方は、コンスタントに書くことが生まれるし、書けないと悩むこともない。

望まれていないものは、慣れ親しんだはずなのに、まるで泥の中の行進

志していなかったし何の修行も積んでいない作文は、サクサク進む

「ここまで露骨ですかね」と呆れる程、見事なまでに、歩みに差が出た。

露骨なのは当たり前で、全母

「全体に捧げる作文頑張っているから、個の宮司さんの願望も、叶えたげよっ」

 

 

なんて、お愛想や忖度をしない。

 

大体、個の都合が既にないので必要もない。

神仏と付き合う時、見えない領域の全母に祈る時、内心でそうした“ご褒美”を期待する方も未だにおられるかも知れない。だが、

「みんなの為に頑張ったら、変容したら、今の個別的願望もオマケで叶うでしょ」

と言う目論見には何の根拠も保証もないし、天の意に沿ったもの以外は、笑っちゃう程てんで叶わない

 

 

宮司の不覚時代の願いもてんで叶っていないが、全く構わない。

不覚の頃には思い浮かべることもしなかった、「変容と繁栄」と言う全体の願い

それに貢献していることを実感する時、正直、個の願いと言う概念は霞んで見える

邪魔が入る、遅れる、堂々巡りになる。

望んで取り組んでいることが、そうした状態になる場合。

 

 

「誰が為にそれを望むのか?」を目を逸らさずに見つめ、認める必要がある。

そして、「これが自分」と信じた存在の為の願望でしかないと分かったら、勇気をもって願望を手放されることである。

手放すことは捨てることではない。

執着と言う意識の手を放しても、その者にとって相応しい望みならば、どこにも消えない

そして、相応しくなければ、願望は元のいのちエネルギーに還って、自由に飛び立ってゆくのみである。

手放したフリは丸見え。

(2019/4/22)