《見事な出題》
人類がこれまで行って来た沢山の知らぬ存ぜぬを観察してみると、コロナ騒動の現れ方の精妙さに驚く。
まず、この世界の誰もそれを「他人事」に出来ない。
肉眼で確認出来ないのは勿論、検査は出来ても現状限りがあり、誰から誰にどう移行するかが追いにくい。
情報化社会の発展と共に不覚が熱を上げて来た「見える化」が、大変難しい。
それも手伝ってこのちっちゃなウイルスに関しては、不覚の大好きな「優劣」ゲームで遊び難い。
例えば地震なら、対象地域は地球のどこそこと決まっている。
台風も進路によって、影響のある地域とそうでない地域には差が出て来る。
だから「被災した」とされる地域を見て、「無事だった」とされる地域は心を痛めたり、我が身の幸運に胸を撫で下ろしたり出来る。
ところが、今回の騒動はあらゆる場所に訪れる可能性がある。
今この時にも、どこにどう広まり続けているか分からないウイルス相手には、被害の確定がおぼつかない。
僻地ならフォーエバー安心と言う訳にも行かないのだ。
病だけでなく経済活動の停滞による混乱も起こる。
コロナへの恐怖に覆われた不覚社会でラッキーアンラッキーを探しに探しても、「完璧に安心」な保証は誰にもない。
その為、意識が目隠しをしたままだと、どこにあっても背後には薄っすらとした不安が口を開けている。
高い所でお家の中から眺めていてもそれは変わらない。
更に、今回は情熱や絆の使い方が難しい。
従来のノリによる絆の強調は「密集」や「濃厚接触」に繋がりがちだが、今回それは推奨されていない。
抱き合ってしのげる危機ではないのだ。
この度、人類は「ばらける」と言うチャレンジを提示されている。
そこにとても新鮮さを感じる。
ばらけるだけでなく、学業や仕事、生活全般のスタイル変更が追加される。
「柔軟性」が試される課題とも言える。
そして、それぞれが抱える自他の溝が露わになる。
他なんかどうでもいいから買い占めたくなるのは、
他なんかどうでもいいから文句言いたくなるのは、
他なんかどうでもいいから逃げ出したくなるのは、
何であれ
他なんかどうでもいいから我を通したくなるのは、
それだけ強烈な「自他」の分断があるから。
更にコロナは、地震や洪水、台風ではとても不可能な「長期の圧を感じる状況」を実現した。
落ち着きが見えて来たら、人類は解放感も手伝って早速この騒動についての、
結局の勝ち組と負け組
を判じようとマウント遊びに興じ始めるだろうが、簡単にはそこに移れない状態が続いている。
おまけに、「これまで祝って来なかったものを祝うチャンス」も併せて巡って来ている。
例えば日本では、普段あれ程「不快」「鬱陶しい」と邪魔にして来た湿気を招く梅雨を、ウイルスが増えにくくなるかも知れないと待ち望む声も上がっている。
「まあ、雨も楽しみましょうよ」的な、謎の上から目線みたいなのはともかく、梅雨がモテたことなど、ちょっと記憶にない。
同時に、例年は
「絶対防御!」
と遠ざけていた紫外線を、これもウイルスを滅するとか何とかで救世主扱いし出したりしている。
嫌われ者達が意外な活躍をする、と言う新しい展開。
つまり人類に向けて、この様に出たのだ。
『これまで当然に感じていた人の流れがあっちこっちで止まって、
お金の流れは減速の一途に見え、
娯楽や遊興がどんどん道を塞がれ、
慣れ親しんだ暮らしが変更を余儀なくされ、
手に手を取って不安を紛らすことも出来にくくなり、
確かなものなど何もなく、
いつ終わるかの予測も立たず、
それぞれ距離を取って過ごす様になり、
これまで以上に「命」に意識が向き、
人の美しさも醜さも丸出しになることが増え、
意外な新しい展開も見え始めている。
この流れは、何で起きているでしょうか?』
つくづくと、見事な出題である。
人の思惑では、出せない。
(2020/4/16)