《苦楽の奥》
月曜記事にも出て来た本を、寝違えチャンスを手離した後も面白く読み続けていた宮司。
お陰様で、先日別の項目で実践を味わうことが出来た。それは、
虫刺され
丁度、日陰になった辺りに山と生えていたドクダミの葉をむしり、丁寧に揉んでつけるだけと言うシンプルかつ簡単な方法で、痒みや赤みが気がついたら引いていた。
何なら薬局に売っていた一番値の張る痒み止めより効いた。
説明書きの内容が面白かったからノリで買って使ってみていたが、手間暇も予算もかけて開発し作っただろう薬より、肥料もなしにその辺からじゃんじゃん生えて来る草の汁が効いたと言うのも味わい深い。
この結果はその時・その症状・その人物に限ってのことかも知れないし、どちらが優るかなど一概には言えない。
覚めぬままの人が自然の力をこうして感じる機会を得ると、
「それ見たことか、自然のものの方が人工物より優れているのだ。合成のものを広めるのはその方が儲かるからだ」
とか彼らのお好みに合わない“間違っているもの達”を批判したり、“ちゃんとしたことを知っている自分達”を意識し優越を感じたりする。
あるいは、
「馬鹿馬鹿しい、そりゃ軽い症状にはそこら辺の草でも効くかも知れないが、深刻かつ複雑な事態に対処するのに自然物だけで間に合わせると言うのは現実的じゃない」
と、やはり彼らのお好みに合わないものを腐したり、“ちゃんとしたことを知っている自分達”を意識して優越を感じたりする。
最もバランスの取れた覚めぬ人達が、自然と人工の調和によって新しい未来を拓きましょう的な、要はいいとこ取りの内容をソフトな表現にくるんで何となく場を収めたりする。
この繰り返しで、人類は結構な期間、同じ様な所を回り続けている。
本とドクダミに機会を頂いて宮司を名乗る“これ”がしたのは、その時起きた変化を味わい、受け入れることのみである。
市販薬にも虫にも感謝し、とりあえず読んで知識として知っていた内容について、体験の形で一丁参加出来たことに満足した。
痒みが変化するのを感じていた時、ふとした瞬間に閃いた。
別に、具合が悪くなかったらやっちゃいかんと言うこともないだろう。
治療の為と、真摯に調査・研究・実践を繰り返し、体験に裏打ちされた知識を書きまとめて来た人々が聞いたらびっくりするかも知れないが、それはそれこれはこれ。
よろしくないものを治すとか、何に役立つとかお構いなしに、やってみたいものはやって構わないのだ。
そんな訳で、自然物を活用する治療にも使われている植物や食品を気の向くままに買い求めたり、育てたりしている。
悪いものを良くする必要がないので、人が「治療」と感じる様な劇的なものではない、もっと細かくさり気なく精妙な、人が本来の力を発揮するのを後押しする変化が起こり得る。
そこを観察してみることにする。
「いやす」は治癒の癒をあてて「癒やす」と書くのが一般的だが、治療の療で「療やす」も又「いやす」と読む。
「いやす」は、苦しい状態を楽にする意味合いが強い。
「いやすこと」「いやされること」はそれ自体、意識にとって強い快感があり、知った者は再びそれを得る為に苦しい状態を作ったりする。
「いやしとは何か」について、逸らさず向き合ったことはあるのか。
「いやしたい人」「いやされたい人」にそう聞いても大した答えは戻らないだろう。
快感を得続けること、その現状維持を前提として、返答の内容を選ぶからである。
だから、癒やしそして療やしに材料として活用されている方に、それを尋ねることにした。
エゴ持ちに聞いても埒があかないことを、彼らが当てにしている存在に尋ねることで知るとは一つ斬新なアプローチである。
育てるのも面白いし、飲んでも食べても面白いし、漬けたり干したり煎じたり、これからしてみたいことも色々ある。
楽しんで、学ばせて頂くことにする。
いやし超え、苦楽の奥へ。
(2021/6/10)