《芽吹く問い》
日に日に吹く風の中に春の気配が増し、モノコトの起こりについても流れが速くなっている。
不覚社会ではこの陽気の変化から来る高揚感、
非常事態下での「まだまだ気をつけよう!」の義務感、
引き締められると商売にならんと言う焦燥感、
引き締めるのに飽きたことで生じる倦怠感等、
色んな感じがごっちゃになって混乱している。
ついでに「お忘れなく!」とばかりにあちこちで地震も起きて、春の嵐みたいに騒がしい。
あれこれ行き交う中でもやはり、危機的状況とされる状態に既に飽きて来た感じは顕著である。
緊張状態は悪化の一途を辿るなどして恐怖が増す中では続けられるが、
大きな変化がない状態だと不覚社会では大体半年位しか持たない様だ。
これが分かったのは収穫であったと感謝しつつ、様々なデータを眺めながら
「チャンスタイム終了か~」
と、頷いた。
何のチャンスだったかと言えば勿論、不覚の意識達に洒落にならない危機を感じさせて、根源の問いを揺り起こす機会である。
「何故ここに在るのか」
「何をしに来ているのか」
「人型生命体とは何なのか」
「いのちとは何なのか」
等の重要な問いを内から発生させるには、個を超えて揺らぐ大きなストレスが必要。
事故や病気等で起こる一個人の危機について、人は運不運を言う。
戦乱や天変地異でも人はまだ、運不運を言う。
そうしたこれまでの運不運判定では片付けられない、人類全体へ突きつけられている“洒落にならない何か”。
そのストレスを正面から受けて、内なる問いを発動させた人々には、これから起こるどの様な変化も追い風となる。
触れられたくない場所や失いたくないものを庇った状態でストレスをやり過ごすのは、正面でなく屈んで受けた状態になる。
十分に負荷をかけずに圧から逃がれた問いなき人々には、世に起こる変化は意識の曲がりを強めるつむじ風のままである。
「世界は一体どうなっちゃうの…」
なんてことは、今の今でも不覚の意識に浮かんだりするだろう。
だが、本気の呆然自失状態でそれを言うのではなく、霧の中に浮かぶ未来に向けて何となく呟いてみるポエム位の軽さに戻っている。
「どうなってしまうのか…」みたいなことを言っておけば、ちゃんとしてる様な気分になる位には緊張が緩んでいるのだ。
その中で、さてどうやって不覚遊びを続けようかと、様子を窺う動きがそこかしこで盛んになりつつある。
勿論それぞれの自由であり、良い悪いはないが何をどうやっても陣取り合戦の域を出ないことに、真の大人になるなら気づく時期である。
チャンスタイムが又来るかはさっぱり分からない。
今回の機会で芽吹いた問いだけで、もう十分なのかも知れないし、そうでないのかも知れない。
分かっているのは、
芽吹いたものは伸びる、
と言うことである。
世のあちこちからどう伸びて来るのか、楽しんで世界観察を続けて行くことにする。
晴々と、問い芽吹く春。
(2021/3/18)