《自由研究》
あちこちで、夏休み中らしき人々を見かけるようになった。
大体が、小さな人たちの集団。それか小さな人たちと大きな人たちと言う構成になっている。
9月に入れば暑くても、「もうそろそろ秋か~」の気配が高まる。
長めの梅雨が明けた今月いっぱいが、「ヤッホウ!夏だぜ!」となれる期間だろうか。
そんなちょっぴり短めの夏に、宮司の元には先週も申し上げた作文の用事がどっさり舞い降りている。
こうしたデータの入出力の他に、資料の整理、紙芝居の作成、各種工作、連絡、事務作業。
わっしょいわっしょいと四方から神輿が押し寄せる真ん中で、団扇でもってあおいだり、交通整理をしている感じの毎日である。
これは当宮建立の前後からずっと変わらないことだが、生活そのものが、
「自他を超えた端末が、全体の弥栄に捧げて、一体どれ程の働きが出来るのか」
を、証明する実験の様になっていて面白い。
歓びであると同時に実体験の全てが“実験”であり、そして大切な研究の一環となっている。
大切な研究とは勿論、
人類による自由への探求の研究
略して、自由研究。
学生の方々は自由研究を、今時分の様な夏休み期間になさることが多いかも知れない。
宮司の自由研究は、季節関係なし。
自由研究は変容に移行する時代の主たるテーマと、上に示され納得してからこっち、ずっと続いている。
自由研究をしていると、実に面白い発見がある。
その発見が、「一体これは?」と首を傾げる謎を呼ぶこともある。
例えば、「1980年代とは?」
『たんけん ぼくのまち』も80年代を中心とした作品であるし、重要な情報を掘り起こすと、何でか80年代のものが多い。
記事をご覧になる皆様に最も多く関係する年代だからなのか、それとも他の年代に比べ突出して重要情報が降りているのか。
「このままじゃ、80年代研究家にでもなってしまいそうだ」
と、呆れたこともある。
5人の方の目覚めから完全覚醒にまで立ち会い、爽やかに送り出して引退をしたあかつきには、YAZAWA研究の第一人者にでもなってみるかと、そんな気ではいた。
この存在、信者は多く居ても研究者となると聞いたことがない。
多分層が薄い、と言うかほぼ無いので、名乗ったその日に第一人者である。
などと呑気にしていたが、そんな適当に決めたポイントをのんびり掘削している状況ではないらしい。
何よりも重要な自由への探求を未だ疎かにして、「自由になりたい」と言いながら、実際は「余裕になりたい」を求めている人々が、殆どだからである。
それは、こちらの仕事も増えるはずだ。
「経済的自由は余裕のことだし、一緒でしょ?」と思われた方は、今一度自由と言う字を見て頂きたい。
自らに
由がある。
どんな状態も、自らが意志するか受け入れるかした結果として現れていると納得し、次の瞬間にはそれがどう変わってもアリだと認められるのが真に自由な状態である。
その自由状態への探求と回帰こそが重要なのだが、現状そうした自由を求める者は、ほぼ見かけない。
「自由ったって、良いもんか悪いもんかも分かんないし、
世間が目を覚ますことにさっぱり移行しなさそうだから、
イマイチ覚悟が決まらないし、やる気も出て来ない」
そんな悠長な方は当宮にお越しになる皆様方の中には今更おられないだろうが、一応ここから観て分かる現在の物理次元の様子を申し上げておく。
天災人災混ぜ合わせた不穏な空気や、常識の覆しで、不覚社会を守る概念の城壁がじゃんじゃん崩落中。
城に立てこもる人々は、崩れる音を耳にしながら、様々な理由でそこから動いていない。
と言う状態となっている。
はっきりさせておく必要があるのは、
「制限時間まで耐え抜いたら崩落が終わって助かり、これまで通り不覚のままで過ごして行ける」
と言う、ゲームではないこと。
「制限時間まで耐え抜いたら崩れた隙間から光が差して、救いの手が現れて覚の状態へ導いてくれる」
と言う、ゲームでもないこと。
新しく生まれ変わった物理次元、「新世界」では自由意志が何よりも尊重される。
「動きたくない」も当たり前に、「OK!」となる。
「動かない」「自由はいらない」を選択する人々が居る一方で、「自由とは何か」「自由になるには何をするのか」を、探求する人々が現れる。
その歩みを観察し研究するのが、こちらの仕事である。
今の今はまだ、およそ人気のないここで、自由の風に吹かれながら仕事に励むことにする。
日々、楽しい自由研究。
(2019/8/5)