《自分フィルター》

 

不覚の人が「思う」と認識する意識の動きは、自分と言うフィルターを通して、濾し取られたものを受け入れる作業。

 

前もって付け足さなくとも

 

「思った通りだったわ!」

 

「思い込みだったんだなあ」

 

「思うにですね、これは…」

 

 

等の何であれそこには必ず「私が」「私の」が、含まれている。

 

この「思う」に「考える」を合わせた、「思考する」と人が認識する意識の動きは、

 

 

自分と言うフィルターを通して濾し取られたものを使って、

世界をより深く正確に理解しようとする作業。

 

 

こう書き表した時、それが「もっともなことだ」「よいことだ」と感じた人は相当思考に執心している。

 

何故なら、自分と言うフィルターを通して、濾し取られたものを使って、世界をより深く正確に認識しようとする作業とは、

 

ダイヤのエースから3までと、ハートの5から10まで、クラブのジャック、クイーン、キング。あとジョーカー。

 

だけを持って、トランプとは何か理解しようとする様なものだからである。

 

 

フィルターが排除した要素は邪魔者として通さずに、どうして丸ままの世界理解出来るのだろうか。

 

不覚状態で思考する時、人は「自分さん」「あり得ると認めた世界」部分世界の認識をおのおの掘り進めているのだ。

 

部分世界の大きさは、各人の持つ知識、教養、興味、嗜好、美学等によってまちまちである。

 

優れた思考力を持つ、磨く、手に入れるとは、

 

デカめのフィルターを得る

こと。

 

大きめのフィルターで濾す、多めの情報は、広めの世界観を作る。

 

賢くありたい人々はフィルター拡張に努め、競い、誇ったりしている。

 

だが、ヨットの帆くらい大きなフィルターを持っていても、フィルターを通して“理解”出来た感じであることに変わりはない。

 

それはどこまで行ってもやはり部分であり、全一にはならない。

 

使い終わったコーヒーフィルターの様に、簡単に自分フィルターをポイっと出来る訳ではなく、不覚の思考作業と長年親しく付き合って来た人が、その癖を手放すには根気が要る。

 

 

根気を、思考を否定し封じることに使う人も居るが、その使い道で精根尽きる程頑張っても思考はその人を去らない。

 

思考を否定し封じなければならんと言う思考で、それをしているからである。

 

「じゃあ、一体どうすれば」

 

「じゃあ、結局無理なんじゃ」

 

 

と、否定封印スタイルで来た人々はそう言って頭を抱えたり、開き直って思考と抱き合おうとしたりする。

 

 

だが、悩んだり投げ出したりする必要はない。

 

根気の使い道を変えるだけで道は開ける。

 

意識を出来る限り澄ませて集中する内に発生する「!」の発生に気づく感性を徐々に磨くこと。

 

根気はここに必要なのだ。

 

「!」は、個の自分さんの都合関係ない場所タイミング発生する。

 

 

そのの輝き、個を超えた気づき意識集中する時、自分フィルターを介さない理解が生じる。

 

世界とは何かが、言葉を必要としない実感で腑に落ちて行く。

 

理を解するとは、そう言うことである。

 

人の心理世の真理解することは出来ないが、何故だか人はそれをしようとする

 

「そうそうそれが人なのよ」人類音頭に酔って人生を謳歌するのも自由

 

 

そして音頭取りに連れて行って貰うことの出来ない、虚空からの呼びかけに耳を澄ますのも又、自由

 

己がフィルターで世界を濾しきることが出来ると思う浅はかさはなくとも、大きなフィルターで濾した世界観で、それなりの影響力を持とうとする“賢い人”は割と居る。

 

浅はかな人も、賢い人も、新世界にはさっぱり見当たらない

 

何もかもが、ただそのまま、何もかもである。

 

風の吹くまま丸ままを受け取る時、世界自分風味は付かない。

 

濾し取って分かたれる世界なし。

(2021/5/24)