《自ら転がす》

 

先日、出かけた先でのこと。 

 

「じぃてんしゃっ」

 

と声がしたので聞こえた方を振り返ったら、大体2、3歳位だろうか星柄の服を着てポンポンのついた帽子を被ったちいさな人が、こちらを指さしていた。

 

宮司が乗っていた自転車が、彼の興味をひいたらしい。

 

その興味が、意識内に好き嫌いの基準が積み上げられた後の人が判定する「かっこいい」「かわいい」「かっこ悪い」「こわい」等に染まらず、自転車そのものに向けられていることに気がついた。

 

 

じぃてんしゃっ(それがそれである)

 

 

普段こんな指摘を受けることは稀なので、大変に嬉しくなった

 

それを伝えたいが、先方の言語認識力がどの位のものかちょっと分からない。

 

歓びを表す顔で、大きく頷くことにした。

 

(そうだ!これは自転車だ!)

 

ついでに手も振ってみたが、ちいさな人は「じぃてんしゃっ」一仕事終えたことに満足し、繋いでいたおおきな人の手を引いてグングン進んで行ってしまわれたので、気がついたかどうかは不明。

 

 

ご指摘の時も、「全速前進!」の時も真顔。そして集中していた。

 

その「純粋さ」「自転車」と言う二つのキーワードが呼び寄せたのか、ある記憶意識舞い戻った

 

未だ不覚の頃、乗り回していた自転車がパンクし、引いて帰る途中に見つけた修理をして貰った時のことである。

 

自転車店とかサイクルショップとかではなく、その店の看板には輪店(りんてん)と書いてあった。

 

「輪」しか売ってないのではな、ちゃんと輪以外の部分も揃った自転車が置いてあるのに、何で「輪」

 

 

店には白髪で背中の曲がった小柄な男性が一人いて、その方が店主だった。

 

修理をして貰う間に輪店について尋ねると、「昔は輪っかも何も全部はずれたバラバラな状態届いたから」と言うことだった。

 

そのパーツ達の中で一番大きなものが「輪っか」だから「輪店」に?

 

新たな問いも浮かんだが、それ以上に「一から組み立てる」方に関心が行った。

 

「えー!凄い!全部ですか!ちっちゃなパーツも、みんなから?」

 

 

「そうだよ。届いたものを、一から組めなきゃ商売にならなかったね。今はもう、そんなこともないんだろうけど」

 

「商売にならない」は、「本物のプロではない」と言い換えても良さそうな位、その言葉には控えめではあるものの、誠実に仕事をして来た人静かな喜びと自負があった。

 

話をしている内に、あっさりとパンクは直り、支払しお礼を言って店を後にした。

 

住まいから離れていたのでそれきり訪れる機会もなかったが、たまたまその辺で又乗り回していた自転車がパンクしたので、数年振りに引いて行ったら、店主にそっくりな娘さんが経営者になっていた。

 

前店主よりひと回り体が大きいことと、性別と背中の傾斜角度以外はほぼ一緒、と言う位似ている。

 

 

前店主は他界されたとのことだった。

 

「一から組めなきゃ」のお話をしたら懐かしそうに、父はそう言う人でしたからと仰られていた。

 

どう言う訳だかこの宮司、不覚時代から気づき学びの面で、自転車を仕事で扱う方にがある。

 

親類縁者に一人も居らず、そうした店に足繁く通っていた訳でもないが、人生のポイントポイントで登場する。

 

仕事と言うのはこの様にするのだと、彼らの姿勢手際から無言の内に教わったこと沢山ある

 

 

その“師”達の誰一人、「教えて聞かせてやる」態度ではなかった。

 

行動で教える。その方が、単に説いて教えるのみより、当たり前に深くなる

 

そして手際や姿勢等、磨いて来たものを、見せはするひけらかしはしない

 

そうした人物からの教えは更に深いものとなる

 

娘さんとお父様の話をする内に、又あっさりとパンクは直り、会計をお願いしたら、店の奥にある部屋からゆっくりとした動きで誰かが出て来た。

  

 

娘さんよりひと回り小さい故前店主より、更にひと回り小さい年配の女性が、ちょっとずつ近づいて来る。

 

かなり速度を落としたスロー再生の動画を見ている感じ。

 

こっちを見ながら片手に持った容器を持ち上げて見せたので、動画じゃねぇやと小走りで近づいた。

 

目で促されるままに手の平を出したら、そこに容器の中身を数個振り入れてくれた。

 

氷砂糖。

 

 

不覚通して人生で貰った中で、最もシンプルな甘味である。

 

突然の、砂糖の直置きに恐縮されたのか、まぁお母さんと言いながら娘さんが包むティッシュを下さった。

 

お礼を言って店を出た後、直ったばかりの自転車に乗りながら氷砂糖を一つ口に入れてみた。

 

こうと決めた仕事誠実に続けて生きたを、ずっと傍で見て来た女からの「ありがとう」

 

それが伝わる甘さだった。

 

 

そして氷砂糖に彼らが成して来ただろうシンプルで純粋な生き様を重ねて、「お見事」と讃えてこの日の出会い感謝した。

 

「自ら転がる車」だけであるなら、自動車だって自転車だと言える。

 

自転車とは「自ら転がすから、自ら転がる車」なのだ。

 

他にハンドルを預けられない。

 

何となく走っている感じにする誤魔化しも利かない。

 

 

そして今の今、この瞬間に集中出来る。

 

これは「本道を行く」ことに通じる。

 

金で乗ったり見栄で乗ったりする者もゼロではないだろうし「不覚者と自転車」の関係も実に様々。

 

だが「じぃてんしゃっ」そのものは、やはりとても純粋な存在ある。

 

でなきゃ人を選ばず時を選ばず、転がす意志に応えて、こんなに見事に回らないのだ。

 

シンプルに、転がしてみよう。

 

(2020/1/18)