《腹立つわぁ?》
そう言えば怒ることを何で、「腹を立てる」と表現するのだろうか。
気が向いて調べてみたら何だか歯切れの悪い説明が多く、ともすればすぐ、不覚社会で幅を利かせている「それはそう言うものだから」と言うポンコツアンサーに行き着く。
不覚であった頃には、このアホみたいな収め方に対してそれこそよく腹を立てたものである。
調べた中に、「腹を立てるの“腹”と言うのは、身体の腹部ではなく心や気持ちのことを意味して使われている」と、書いてあった。
流石にこれには、
「何だって!?」
と驚いた。
何に驚いたかと言うと、
心や気持ちで起きていることだと分かっているのに、
何故その立場をわざわざ「腹」と言う違う所にずらすのか。
心や気持ちを守りたい狡さ、心や気持ちの守られたい狡さのあることを、
何故意識が認めようとしないのか。
の二点。
ついでに、そんな変てこな言い回しを何でこんなに長らく続けっぱなしで居られるのか、にも驚いたかも知れない。
心の中で何か企んでいることを「腹に一物」と言ったりもする。
「腹黒い」とか、人は祝えないものや厄介だと感じるものを何かと腹に不法投棄して来た。
理由は簡単。腹が文句を言わないから。
そして、腹は無限の虚空に通じるものだと、意識が勘づいているからである。
不覚状態の意識でも、腹に無限っぽさを感じる位は出来る。
只、それっぽさを感じる程度なので、便利なディスポーザー扱い位しか出来ていない。
そんな風に扱って軽んじている様でありながら心も頭も、いざ雲行きが怪しくなったらすぐ腹の陰に隠れようとする。
心も頭もと書いたが、実際はそれらを我欲で使っている分割意識が、
「ボク達を生んだのは、お母さんなんだから、
子がやったことは親が何とかしてよね!」
と言うイチャモンを放ってワーキャーしているだけである。
驚き呆れながら観察していて、「腹を立てる」動きを支えるのは
こうあって欲しくないと言う基準
であると改めて気づいた。
中立な感覚そのものには元々評価や抵抗、介入をする機能はない。
だが、特定の判断基準を持ったことで感覚が歪んでいると、それらが出来る様な気になって求めてしまう。
何か自分の思うことや感じること、作った基準に反するような事が起きた時、人は「腹が立つ」。
と言うことは裏を返せば、腹が立つ感じになった時、そこには何か特定の基準がある。
中立な意識は天地を通る。
腹を装った心から出発し頭に来て、そこから抜けずに熱を帯びてグルグル回るエネルギーを人体図の中に描いてみると、傍流であることは明らかだ。
「だって腹立つんだもん」「人としておかしいでしょ」「あんまり酷いじゃない」
と、腹を立てることも時には必要だとする時、ちゃんと確認しているのだろうか。
その腹立ちが一体、世の何を変えたのか。
腹立ちで湯気がピーっと出ただけで満足するのが大多数、その中に腹立ち発信で世に一石を投じることを成す人も稀に居る。
腹立ちを切っ掛けに世の為人の為に貢献する。
それで盛り上がれる時代もあったが、もう過ぎた。
元々、怒りに任せて何かをやろうとしても、大したことは出来ていない。
殊に、これからの時代には無理で、単にエネルギーの暴発事故が起きるだけとなる。
腹立ちまぎれに何か解決することはないと認めて、静かに変わろうとする人々には申し上げられることがある。
不覚の人の多くは、割と正義に傾いている。
正義感が強い人が多い訳ではなく、我が正義に傾いている。
悪人と見なされる人々もその“MY正義”に従っているだけで、殆どが自分を悪とは思っていない。
腹立ちを超えようとする人は、腹が立つ感じが起きた時には意識上に
「正義は我にあり!」
の旗を出していないか、ちっちゃな自らを俯瞰で観ることをお忘れにならない様にお願いする。
そしてその旗も込みで、腹を立てているちっちゃな端末を愛で観察されること。
腹立ちだって、他の何と変わらず虚空が一旦やってみたかったものの一つだ。
そこへの祝いが起きる時、堂々巡りが解けて行き、掲げた字も消えて白旗となる。
正も義も、我にはあらず。
(2021/4/19)